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2010年2月18日 (木)

フローズン・リバー

Frozen_river今年は早めに申告を終え、バスで渋谷に。
窓から見上げる外苑の空は冬色だけど、
木々の先には膨らんだ芽が春を待つ。

この路線の途中には、黄色いナトリウムランプの高架下トンネルがあって、壁一面に落書き
(ウォールアートと呼ぶべきか)が描かれ、
そこを通るたびにN.Y.の郊外を思い出す。
けれども何度か訪れたそのN.Y.州の
最北端(カナダとの国境)にモホーク族の保留区があるとは知らなかった。

この映画「フローズン・リバー」は、
個人的にはすでに今年№1の予感。
先日のオリンピック開会式でも触れた先住民の現状、
監督は自分と同じ年の女性で、しかも同じ年の娘がいる。
(資金集めは弁護士の夫がやってくれたそうだけど ^^;)。
そんな彼女のデビュー作にして出世作という点も見逃せなかった。
ストーリー、役者、テンポ・・・低予算だからこその秀作。
音楽も渋いながらも印象的で、好みでした。

私が初めて’境’を意識したのは、幼い頃に住んだ函館だと思う。
港を出入りする船、函館山に登るロープウエィ、教会の礼拝堂、
アイヌの民族衣装、熊や鹿の剥製、ロシアの民謡、岩場の海の岬の向こう・・・。
思い出す風景には、どれも’境’の感覚がつきまとう。

そして学生時代に訪れたユーロがなかった頃の欧州大陸。
鉄道で国境を越えるたびに言葉も貨幣も人も変わり、
生まれてからずっと
国境のない国(日本)に暮らしているということが、
とても特殊なことなのだと実感した。

けれども’母親’という仕事には国境が無いと実感したのは、ここ神楽坂。
フランス人も、中国人も、韓国人も、そして日本人も(最近はインド人も)、
子供に向かって話していることは’たぶん’みな大差なく、
自転車の前後に子供を乗せて、
坂道を登っていく母親の逞しい姿に境界線は感じない。

この「フローズン・リバー」は、
そんな’境界’を行き来する二人の母親の物語。
特別な場所を舞台にした、どこにでもありそうな話なのだ。

国境、民族、犯罪・・・
彼女たちは臆することなく凍った川を渡り、一線を越えていく。
いつしか日常と非日常の境は無くなり、
’母親である自分’という逃れられない現実を受け入れながら、
すべてを日常に変えていく。
この映画に’父親’は登場しない。

そもそも国境とは何なのだろう。
先住民を保留する意味は何か。
国境や民族を超えて子供を産める性には、必用あるのだろうか。

女性が描く母親の姿はリアルだ。
男性監督は、どこかで母性を美化するけれど、
母性とはこの映画が示すように、ただ’現実を引き受ける覚悟’に過ぎない。

例えば先日観た、マザーテレサのドキュメンタリー。
戦火の国にいる子供たちを助けに行く彼女の姿は、
決して感情的(情緒的)ではなかった。
穏やかな優しさとは違う、もっと大きな覚悟。
オトコマエと呼びたくなる、母性の力を感じた。

子供の有無に関わらず、
現実を引き受ける覚悟を持ったときに、女性は母性の力を発揮する。
ましてや自分の子供を守るためなら、境界を越えることなんて怖くないのだ。

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※作品のせいか、今回はやけに硬派な文体となっております(m_m)

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