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2011年10月の3件の投稿

2011年10月20日 (木)

みえる、みえない 映画「ミルコのひかり」

Photo

先日は、「きこえる、きこえない」をテーマに舞台「R&J」について。
今日は、目の見えない少年が、
耳を開き、人生の扉をも開いていく映画「ミルコのひかり」を取り上げます。

この映画の主人公はイタリアに実在する盲目のサウンドデザイナー。
彼の少年期をドラマにしたものです。
1970年に10歳だから、自分より少し上の世代かな。
当時うちはオープンリールではなくて、すでにカセットデッキでしたが、
目が見える、見えないに関わらず、
「テープ」を使って録音する楽しさを発見していく過程は、
時代的に懐かしいというか、共感するものがありました。

そして、ここですごく大切なことは、
(ちょっと専門用語になりますが)、
アナログ機材は音の切り貼り作業(パンチイン/アウト)等が、
すべて「手で出来る」ということだと思いました。
ミルコが録音した「音」は、「テープ」という’手に触れられる状態’になっている。
これが、いまのデジタル・レコーダーになると、音がデータ化されるので手で触れられない。
編集画面で、音を視覚的に(あるいは数値として)作業していくことがほとんどです。

例えば、ボタンひとつで(オートで)録音できるICレコーダーは、
目のみえない人たちにも便利のようにも思えますが、
そのあとの編集作業は、かえって難しくなってしまった気がします。
(作業時に音声ガイドがあれば別ですが)。
テープ残量(録音可能な時間)ひとつとっても、手で確認できないのですから。

何より音がカラダを通って、自分が抱えるレコーダーに入っていくような、
音とカラダと機材の一体感には、アナログ的な作業が不可欠です。

ボリュームやフェーダーを動かす感覚だったり、
テープを動かしたり止めたりする時の「ガチャリ」というスイッチの手ごたえや音だったり。
自分が機材を動かしているという実感と、「手の感覚」から音を感じとる面白さと。
ミルコが夢中でテープを切り貼りしている編集作業のシーンは、
まるで楽器を演奏しているようでした。
現在の、目が見えるエンジニアたちが嘆く、
デジタル化によって、音に関わる作業が’視覚に偏りすぎている’という事実。
音がデータ化されてから失われたものが、あのシーンにはありました。

もっと耳を、手を、全身を使って音を探り出していくことが、
本来の音表現の喜び。
もしも、盲目の少年がデジタルレコーダーを使ったとしたら、
はたして音響デザイナーを目指しただろうかというのは、
大きなギモンでもあります。

映画の物語に話を戻せば、もうひとつの印象的なエピソードがありました。
この盲目の少年たちの中に、
先日の「R&J」手話通訳のような存在として、目の見える一人の少女が参加しています。
本人が自覚するとしないとに関わらず、みえるorみえない、少年たちの内と外をつなぐ役割を担う彼女。
彼女の存在が、盲目の少年達の音表現を飛躍的に広げていきます。
しかも彼女にとって、みえるorみえないということは、何の障害にもならない。
こどもゆえの、先入観のない、自由な心があるのです。

先日読んだサウンド・エデュケーションの論文では、
この映画には「「見えること」と「見えない」こと、「聴こえること」と「聴こえないこと」の拮抗が
描き出されている」と指摘されていました。
(2011 石出和也 「聴くことの場」を語るための言葉 (弘前大学)
見えないからこそ聴こえている音があり、
見えてしまうからこそ聴こえない音もある。
いま「見えている」自分の五感が本当に開かれているかは、
常に自問自答する必要があるのだと気づかされます。

そして、ひとりの開かれた耳が、他者の耳を開いていく。
耳だけでなく、心も、未来の扉も開けていく。
(このことは、ラスト近くで象徴的に映像化されています)。
それは、「みえる、みえない」という障害を乗り越えた少年の物語というよりも、
ひとりの気づきが、周囲の共感を呼び、新しい可能性を開いていく、
五感が開かれた人生の醍醐味とは何かを教えてくれる物語でもあったのでした。

「ミルコのひかり」

監督:クリスティアーノ・ボルトーネ
   2005年 イタリア映画

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2011年10月16日 (日)

音の記憶① 函館カトリック元町教会の鐘の音

サウンドスケープを掘り下げていくにあたって、
自分の音の記憶を折に触れてメモしていくことにしました。
今回は、函館カトリック元町教会。
私が通った(途中で東京に戻った)幼稚園の鐘の音です。
今でも時々夢に出てくる、正門までの道の風景。
この映像を見つけたとき、まさに自分の夢が映像化されたような不思議な気持ちになりました。
ちなみに今は美しい石畳ですが、当時は舗装されていない道だった。
この鐘の音をきいた瞬間、涙が流れた。
なぜだろう。
その「なぜ」に迫っていけたらと思うのでした。

こちらはお向かいのハリストス正教会。
日本の音風景・100選にも選ばれている、なんとも音楽的な鐘の音。
どこかガムランのようにも聴こえる。
不思議とこの印象的な音があまり記憶にないのは、日曜日の午前中に鳴らされる鐘だから。
教会の鐘の音が届かない場所に家があったんですね、おそらく。


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2011年10月14日 (金)

きこえる、きこえない 「R&J」 (ロミオとジュリエット)

Rj

自身も聴覚障害を持つイギリスの演出家ジェニー・シーレイの舞台「R&J(ロミオとジュリエット)」。
この舞台のコーディネーターは、6月に津田塾のメディア4Youthでお会いした吉野さつきさん。
出演者&日本手話コーディネーターには、旧い劇場仲間の米内山陽子さんがいた。
現在取り組んでいるサウンドエデュケーションの研究テーマは「きく」という行為。
その関連で読んだ論文で、耳の聴こえない人たちに音楽を提供している音楽家・佐藤慶子さんの存在を知った(彼女は米内山さんの父・米内山明宏監督の映画音楽も担当されている)。
そして仕事でも、聴覚障害者を知る上で「サイレント・トーク」という体験をしたばかり。
と、いろいろな「いま観るべき」を感じて足を運んだ舞台。

耳の聴こえないジュリエットと、聴こえるロミオ。
そもそも障害とは何だろう?
障害のある/ないは、何が基準となるのだろう?
舞台上では彼らのシルエットのように、もう一組のカップルが、
ジュリエットの手話を声に換え、ロミオの言葉を手話に換えていく。
手話はまるでダンスのように舞台を彩り、
背後のスクリーンでは風景のように台本も映し出されていく(役者の書き込みつきで)。
’きっかけ’には照明や役者の動き、そして重低音も使われる。
そう。聴覚は視覚と触覚に転化され、役者達が息を合わせていくことに不都合はない。
耳が聴こえない、手首から先が無い、背が低い・・それらはカラダの障害であっても、
舞台を進行する上での障害にはならない。
話せる人が声を出し、通訳できる人が言葉を伝え、動ける人が動いていく。
自分の出来ることをやって、お互いに支え合いながら、補いながら、つながっていく。
それはまさにユニバーサル。
この舞台から理想的な社会の縮図が見えてくる。

では、この「ロミオとジュリエット」で語られる最大の’障害’は何だろう。
それは言うまでも無く、
お馴染みのモンタギュー家とキャピュレット家間に存在する’憎しみ’なのだ。
間にある、というよりも両家の人の「心の中に存在する」障害と言う方が正しいだろう。
そのことに気づくとき、健常者と言われている立場の自分がはっとする。

余談として、開演前の客席で、
円形の舞台をはさんで手話でやりとりしている人たちの姿が興味深かった。
「音の無い会話」は距離という障害を越え、
私たちにとっての’静かにすべき場’の概念を自由に飛び越えていく。
手話を奏でる身体から発せられる’気’は、非常に音楽的でもあった。

そして終演後にロビーで
米内山さん(聴こえる)と数人の聴覚障害の人たちが手話で会話をする中に、
ひとり参加するという場面があった。
私は手話がわからない。
米内山さんの会話(声)と、
聴こえない彼女達の身振りと、くちびるを必死で読み取りながら、
半分の音のない会話の雰囲気を感じ取っていた。
それは初対面のミュージシャンと即興セッションする時の感覚と非常に似ていたが、
正直ちょっと心細かったのも事実。

マイノリティはどちらなのか。
障害というのは意識の問題、そして数の問題ともいえるのだ。

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「R&J」
演出:ジェニー・シーレイ
原作:ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』
翻訳:松岡和子
企画制作:NPO法人エイブル・アート・ジャパン
運営:第11回全国障害者芸術・文化祭埼玉大会実行委員会

彩の国さいたま芸術劇場小ホール

R&Jのブログ→ http://r-and-j.jugem.jp/

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