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2011年10月14日 (金)

きこえる、きこえない 「R&J」 (ロミオとジュリエット)

Rj

自身も聴覚障害を持つイギリスの演出家ジェニー・シーレイの舞台「R&J(ロミオとジュリエット)」。
この舞台のコーディネーターは、6月に津田塾のメディア4Youthでお会いした吉野さつきさん。
出演者&日本手話コーディネーターには、旧い劇場仲間の米内山陽子さんがいた。
現在取り組んでいるサウンドエデュケーションの研究テーマは「きく」という行為。
その関連で読んだ論文で、耳の聴こえない人たちに音楽を提供している音楽家・佐藤慶子さんの存在を知った(彼女は米内山さんの父・米内山明宏監督の映画音楽も担当されている)。
そして仕事でも、聴覚障害者を知る上で「サイレント・トーク」という体験をしたばかり。
と、いろいろな「いま観るべき」を感じて足を運んだ舞台。

耳の聴こえないジュリエットと、聴こえるロミオ。
そもそも障害とは何だろう?
障害のある/ないは、何が基準となるのだろう?
舞台上では彼らのシルエットのように、もう一組のカップルが、
ジュリエットの手話を声に換え、ロミオの言葉を手話に換えていく。
手話はまるでダンスのように舞台を彩り、
背後のスクリーンでは風景のように台本も映し出されていく(役者の書き込みつきで)。
’きっかけ’には照明や役者の動き、そして重低音も使われる。
そう。聴覚は視覚と触覚に転化され、役者達が息を合わせていくことに不都合はない。
耳が聴こえない、手首から先が無い、背が低い・・それらはカラダの障害であっても、
舞台を進行する上での障害にはならない。
話せる人が声を出し、通訳できる人が言葉を伝え、動ける人が動いていく。
自分の出来ることをやって、お互いに支え合いながら、補いながら、つながっていく。
それはまさにユニバーサル。
この舞台から理想的な社会の縮図が見えてくる。

では、この「ロミオとジュリエット」で語られる最大の’障害’は何だろう。
それは言うまでも無く、
お馴染みのモンタギュー家とキャピュレット家間に存在する’憎しみ’なのだ。
間にある、というよりも両家の人の「心の中に存在する」障害と言う方が正しいだろう。
そのことに気づくとき、健常者と言われている立場の自分がはっとする。

余談として、開演前の客席で、
円形の舞台をはさんで手話でやりとりしている人たちの姿が興味深かった。
「音の無い会話」は距離という障害を越え、
私たちにとっての’静かにすべき場’の概念を自由に飛び越えていく。
手話を奏でる身体から発せられる’気’は、非常に音楽的でもあった。

そして終演後にロビーで
米内山さん(聴こえる)と数人の聴覚障害の人たちが手話で会話をする中に、
ひとり参加するという場面があった。
私は手話がわからない。
米内山さんの会話(声)と、
聴こえない彼女達の身振りと、くちびるを必死で読み取りながら、
半分の音のない会話の雰囲気を感じ取っていた。
それは初対面のミュージシャンと即興セッションする時の感覚と非常に似ていたが、
正直ちょっと心細かったのも事実。

マイノリティはどちらなのか。
障害というのは意識の問題、そして数の問題ともいえるのだ。

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「R&J」
演出:ジェニー・シーレイ
原作:ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』
翻訳:松岡和子
企画制作:NPO法人エイブル・アート・ジャパン
運営:第11回全国障害者芸術・文化祭埼玉大会実行委員会

彩の国さいたま芸術劇場小ホール

R&Jのブログ→ http://r-and-j.jugem.jp/

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