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2012年6月29日 (金)

フンフルトゥ12年ぶりの日本ツアー 【Huun Huur Tu】 

Photo世界的に活躍するトゥバのミュージシャン・フンフルトゥ、念願の東京公演が6月28日武蔵野市民文化会館小ホールで、実に12年ぶりに実現した。(東京チケットは完売)。
今回2年越しの企画を実現したプロデューサーで、ステージの進行役も務めたのは、CD『生きものの音』やライブで一緒に活動している日本を代表するトゥバ民謡音楽家・等々力政彦さん。彼の熱意は台風や梅雨前線も寄せ付けず、ポルトガル公演を終えたばかりのメンバーは予定通り来日を果たし、最終日の東京公演まで、各地とも大盛況のうちにコンサートを終えた。

フーメイや口琴は、元祖・巻上公一さんのワークショップやライブ等で知っていたが、
トゥバ民謡そのものとの出会いは、『生きものの音』のリハが最初だったから、6年前くらいだろうか。
等々力氏が弾くドシプルールの音色を初めて聞いた時の衝撃が忘れられない。

「この人、何を弾いてるんだろう?」だったのだから。

その擦弦楽器から聞こえてくる音は「風」そのもの。
しかも、ものすごく小さい。
自分の弾くピアノの音が、その見慣れない楽器の音を容赦なく打ち消してしまう。
クラシック音楽の範疇なら「非楽音」どころか、「雑音」扱いされかねない音。。。
この共演は難しいなあ、、と感じた。

だけど先入観を捨てて、注意深く耳を澄ましていると、
その風の中に微かな旋律が見えてくる。
そう、「見えてくる」のだ。
シベリアの草原が、それを囲む山々が、その山にこだまする鳥の声や、馬の嘶きが。
トゥバのサウンドスケープがそのまま楽器の中に閉じ込められている。
その風の音に合わせていると、ピアノの演奏の間合いや音量、音質も明らかに変わってくる。自然音との調和が新たな旋律を生む。

しかしその音がアンプを通して増幅された時、ものすごい力を発揮したので驚いた。
マイクを通さない生の音が、
人間の耳がとらえる「内側」の音環境(心象風景)ならば、
増幅されたそれは大地を包み込んでいる「外側」の、まさにシベリアの音環境だ。
トゥバ民謡は音響機器との幸福な出会いによって、
産業革命の代表選手ともいえるピアノをはじめ、
音量ではとうてい敵わなかった近代西洋楽器との共演を可能にし、
シベリアのサウンドスケープを世界各地で再現可能とした
稀有な民族音楽のひとつと言える。

喉歌、ホムス(口琴)は、本来なら「ムジカ・インストルメンタリス(声楽と楽器の音楽)」と言うべきだが、
これは「ムジカ・ムンダーナ(天空の音楽)」なのだと敢えて言う。
特殊な倍音が紡ぎ出す音世界は、有機的であると同時に無機的な印象もある。
彼らの演奏は実にクールで、感情を吐き出したり、聴衆を煽ることもなく、
徹底的に「音」に忠実に、しかし時に軽やかでユーモアさえ交えながら、
シベリアの大地を超え、果てしなくどこまでも広がっていく。
その音を受け取る体験には、瞑想で味わうような宇宙とつながる瞬間がある。
作曲家が長い時間をかけて構築する交響曲とも、
演奏家の精神性や技術鍛錬で魅せるインド古典ともまた違った、
「音」そのものの、まるごと「音」のチカラだけで体験するアポロン的な宇宙だ。

しかし深淵で神秘的な「音」とは対照的に、
歌われる歌詞は、あくまでも「リアル」であることは興味深い。
ロマンティックな要素は微塵もなく、厳しい自然の中に生きる人々の、
実感のある「生」そのものが赤裸々に歌われる。

そしてこのギャップこそが、「芸術」なのではないかと思う。
アポロンとデュオニソスの理想的な融合である。

ロシア連邦の一国であるトゥバ共和国の学校音楽教育は、
ロシアン・クラシックが基本で、ピアノも全国土に普及しているという。
(フンフルトゥ・メンバーの自宅映像にも立派なグランドピアノが映っていた。)
彼らのプロフィールにも、クラシック教育の背景やロックの影響もみられる。
トゥバ民謡はあくまでも「トゥバ民族としての誇り」が紡ぐのであり、
だからこその自由とオリジナリティがある。
それはナショナリズムとは一線を画した、純粋な音楽家の魂である。
しかしロシアを背景にする特殊な音楽教育が、彼らを世界的に活躍させ、
ジャンルを超えた音楽家たちとの共演を可能にしていることも見逃せない。
彼らは「原始の耳」と「現代の耳」を併せ持つのだ。

邦楽器や雅楽器の奏者には世界的に活躍する演奏家も少なくはないが、
こんなにも国境を越えて聴衆の心を捉えることは可能だろうか。
家元制度という、この国の特殊性は明らかに音楽的な閉鎖性も生む。
むしろ各地域に残っている伝統芸能や民謡、神楽や祭囃子の中に、
日本のフンフルトゥを生む可能性が大きく存在していると考える。
人々の暮らしの中に根ざしている音楽で、
日本が世界とつながっていけたら素敵なことではないだろうか。
かつて音楽の「民芸(民俗芸能)運動」が起きたことはあっただろうか。

遊牧民の血に流れる「馬のリズム」、
大陸が生む大らかさ、
アレンジのセンスの良さ、
そして何より、太鼓の皮に使う山羊を捕りに崖をよじ登るところから始まるという、
人間として、「生きもの」としての強さ。

シベリアという厳しい大地に生きる音楽。
そのチカラは、「生きもの」としても弱りつつある今の日本の私たちに、
シンプルで力強い生命力を吹き込んでくれた。

音楽とは何だろう?
そこに「演奏する人」が存在する時、それは彼らの命の息吹そのものである。
そしてその息吹と宇宙がつながる時、聞き手の耳もまた無限に開かれる。
いまあなたが耳にしている音楽に「命」は吹き込まれているだろうか。
利益追求の戦略に則って、コンピューターで打ち込まれた音ではないだろうか?
その音には、生きものとしてのチカラはあるだろうか。

フンフルトゥはこの公演のあと、ドイツツアーが控えているという。

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