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2013年4月 2日 (火)

つむぎね単独公演「わを」at BankART Stuidio NYK(横浜)

わたしの体内から「原始の声」を聞いたのは、
間違いなく娘の出産中のことであった。
それは「耳の記憶」の中で最も獣に近い「ヒトの声」で、
声を出している本人がおそらくいちばん、その声に驚いていた。

自分の声なのに、初めて聞く声。
高いのか低いのかもわからない、叫びとも唸りとも違う、
体の奥底から湧き出る、本能の声。
こんな声を持っていた自分を、その時まで知らなかった。
それから「原始の声」は、耳の奥底でわたしの「基音」となっている。

先週末、横浜のBankARTで、つむぎねの単独公演『わを』を観た。
「つむぎね」は、30代の女性現代作曲家・宮内康乃さんが主宰する、
本来は女性たちのパフォーマンス集団だ。
この日は友人のピアニスト浦畠晶子を含め男女合わせて総勢18名、
さまざまな音楽的背景を持ったアーティストたちによる、
声やピアニカを中心とした作品だった。

ここでふと迷う。
「作品」、という表現でよいだろうか、と。
誤解を恐れずに言えば、あの時間は一種の魔術的な「儀式」だった。
そして思い浮かぶのは、以下の一文だ。

「芸術とは呪文であり魔術である-これが芸術の体験の
いちばんはじめの形であったにちがいない。
(たとえばラスコー、アルタミラ、ニオー、ラ・パシエガの洞窟絵画。)
                      ―スーザン・ソンタグ『反解釈』より

元倉庫の会場を覆うように偶然残されていたという木製のドーム型オブジェ。
胎内のような、洞窟のような、教会のような、小宇宙のようなその空間で、
男女が輪になって、楽譜の無い簡単なルールに則って、音を、声を紡ぐ。
ある時は、音はドームの外に出て、「見えない音、想像の音」に変化する。
眠れない部屋、夜の森、街の雑踏、獣たちの声・・・日常と非日常。
見える音、見えない音。
内の音、外の音。

声やピアニカで紡がれた音は、
ホーミーや声明の倍音や、ホワイトノイズのように様々な風景を含み、
自分の耳の奥に眠っている数々の音の記憶と結びつきながら、
いつしか「沈黙」という「一点」に集中していく。

行きつく先は、20世紀の中頃に、
ジョン・ケージを源流とする多くの現代作曲家が目指した「沈黙」である。
しかし21世紀の彼女、彼らはもっと自然体で芸術と向き合い、
身体性のある個の集合体となって、その「沈黙」を表現する。
それは、芭蕉が蝉の音の中に見出した「静けさ」と同種のものだ。
「意図」ではなく、調和から導かれる自然や宇宙の摂理である。

中心にいる宮内の、飾らない人柄によるところが大きいだろうが、
おそらく創作のプロセスから、その「調和」はあったはずだと思う。
人と人、人と音、音と音・・・とてもヨガ的な相互の関係性は心と体に心地よい。
そしてこの関係性こそ、現代の音楽が、いつの間にか見失ってしまったものなのだ。

一人の巨人が、自らの才能や理想の音世界をかたちにするために、
他者を「力」で支配し、服従させるのではなく、
誰もが中心点に向かって平等に音を紡いでいく。

そしてこの開かれた音空間に身を浸した誰もが、
「自分もこの音のひとつになってみたい」「なれるかもしれない」と思う。
舞台と客席の境界線はない。
そこには中心点に「沈黙」を据えた、ひとつの大きな輪があるだけだ。

その世界が、宮内がオンガクで追及する’プリミティブ’(原始的)’であり、
「真の調和」なのだと思う。

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