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2014年4月14日 (月)

奈良「たんぽぽの家」を訪問しました。

13月末になりますが、奈良にある財団法人「たんぽぽの家」(アートセンターHANA)を訪れました。ここは、現在私も会員になっているアートミーツケア学会、また秋葉原/アーツ千代田3331内のNPO法人エイブルアートカンパニーの母体でもあります。
 ご存知の方も多いと思いますが、ここでは様々な「アート」が媒体となって、障害のある人、ない人がバリアフリーの関係性を築きながら、芸術性と実用性の高いモノづくりや、コンサート活動で「福祉」を社会に開く試みを30年以上続けています。
 私がここの活動を知ったきっかけは、アーツ千代田3331のエイブルアートカンパニーのギャラリーで出会った素敵な「モノ」たちでした。それらが、いわゆる「福祉作業所」で作られていることに驚きましたし、偶然、友人の何人かが活動に関わっていることが判明し、いつかは訪れてみたいと思っていた場所でした。今回は娘の小学校卒業旅行を兼ねて、ふたりで訪れました。

 スタッフの方に案内されたアトリエは、「作家」一人一人の個性や身体に合わせて、気持ちよく創作活動に集中できるような環境が整えられている「やさしい場所」でした。
 法律上は「福祉作業所」になるわけですが、もちろん、一般的に想像されるような場とは全く違います。アートの前では(アートの前だけでは、かもしれません)、人は限りなく平等です。つくる人、受けとめる人、その双方向の関係性はシンプルで、フェアである。それが「たんぽぽの家」すべてを包む気持ちのよい空気や、明るい光に象徴されているのだと思いました。
もちろん、ここで作り出されるモノたちにも。

Photo_2 もうひとつ「たんぽぽの家」のユニークな点は、「ケアする人のケア研究所」を立ち上げ、‘ケアする人たち’の心身にも目を向けているところです。
 福祉の場は、ともすれば「ケアする人、される人」という関係性になりがちです(これは「教える人、られる人」という学校を始め、いろいろな場に当てはまりますが)。その一方的な関係性を、いちど身体を通して「相互の関係」に変えていくことで、結果的にケアする人たちの心身もケアされていくという研究テーマに注目しています。身体性をとり戻す方法論に、「ダンス」や「演劇」を取り入れているところにも、アートの力がしっかりと活用されていると思うのでした。
 そして何より、こうした福祉の現場にアーティストが入り込んでいくことで、新しい風がどんどん吹いているという状況は、芸術を志す若い世代にとっても、希望の光となるのではないでしょうか。
 もちろん、芸術を単なる「道具」として考えると、本質を見失うと思います。
まずアーティスト本人が、芸術に「救われた」経験があること。
生きる力が内面から湧き出すような経験が、
テクニックで表面的に人をケアすることとは、大きな違いを生み出す。
それはモノづくりでも同じで、
たんぽぽの家のモノが人の心を捉え続けるのは、
それを生み出す作家が自発的にモノを作り、
それを受けとめる側に「これ素敵だね!」という感動があるからなのだと思います。

いわゆる、「障害を持たない」芸術性の高いアーティストが、
コミュニケーション能力が高いとも限らない。
むしろ専門性を追求するあまり、人として大事な何かを見失っている場合もある。
では、そもそも、障害の「ある、ない」の基準とは何なのか。
障害者アートとは何なのか。
それは芸術の本質とは何なのか、という問いと同じだと思うのでした。

高齢化社会を迎えた今。
人はみんな、いつかは歩けなくなる、聞こえなくなる、見えなくなる。
それは障害なのでしょうか。
障害って何でしょうか。
奈良の街を歩きながら、あらためてそんなことに思いを馳せた春でした。

今度は「わたぼうしコンサート」にも足を運んでみたいと思います。

 
 
 

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