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2014年10月の6件の投稿

2014年10月29日 (水)

『リー・ミンウェイとその関係』展

〇展覧会の詳細についてはこちら をご覧ください→

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Photo週末に広尾の聖心女子大で日本音楽教育学会が開催されたこともあり、気になっていた『リー・ミンウェイとその関係展』(六本木ヒルズ・森美術館)に立ち寄りました。

 先日訪れたヨコトリの釜ヶ崎芸術大学もそうでしたが、コミュニティ・アートやリレーショナル・アートと呼ばれる作品や手法に深く共感する今の自分を再確認しました。数年前から周囲の表現者たちがコミットしている場所が実感として確認できたというか。さらに「コミュニティ・ミュージック」や「リレーショナル・ミュージック(という言い方は不思議とお目にかかりませんが)」に置き換えて考えてみると、サウンドスケープ思想につながっていくのが何より興味深いです。ヨコトリ同様ここでもケージの4’33が展示されている。その系譜であるシェーファーも禅やヨーガに影響を受けています。「コミュニティ音楽療法」(若尾裕著、『音楽療法を考える』、2006)の捉え方やミュージッキングにもつながっていく。美術と音楽の境界が良い意味で’曖昧’になり、一気に世界が広がるような、閉じられがちな「表現」という世界に風穴が開いたような清々しさも感じるのでした。

 アール・ブリュットが「生の芸術」とすれば、リレーショナル・アートは「つながるための芸術」。両者の大きな違いは、制作プロセスに「他者」の存在があるか否かという点でしょうか。アール・ブリュットは基本的には他者とのつながりや公共性を目的として作品を生み出すのではなく、内側から湧き出る生命そのものの芸術と言えます。それが結果として鑑賞者の心に響き、作品と鑑賞者がつながることはあっても、そもそも発表することが制作の最大の目的ではないわけです(だからこそ胸を打たれるのですが)。
 アール・ブリュット(仏)の一般的な英訳としては「アウトサイダー・アート」が使われます。これを’障害者アート’に置き換えることは、’普通’を内側に置いた発想なので個人的には好きではありませんが、マイノリティという本質は捉えているとも言えます。一方リレーショナル・アートは、モノではなく制作過程に生まれるコトが重要です。源流となる作者自身の在り方や思想、つまりヒトが全てであるとも言える。鑑賞者の参与を含む他者とのつながりを目的にした(また公共性を視野に入れた)作品であれば、もちろん作者がマイノリティやアウトサイダーでなくても構わないわけです。

 最初のセクションで提示される「関係性、つながり、あいだについて考える」というテーマは、まさにCONNECT/コネクトでも私が目指しているところです。ここでは、サウンドスケープ思想を「内と外をつなぐ関係性」と捉え直し、その考えを軸にネットワークを組み立てています。ですからネットワークはひとつの「リレーショナル・ミュージック」のような音風景として広がっていくでしょう。サウンドスケープから生まれた「サウンド・エデュケーション」は、リレーション(あいだや関係性)を考えるきっかけも与えてくれるのです。そしてこの「関係」の出発点は自分の「内」に向き合うことから、つまり「音の記憶」を辿ることから、自分の内側の「中心点」であることに気づいていきます。道教の内経図も興味深かった。
 会場には作品に関連したサウンドも流れていましたが、基調となるのは「静寂」でした。静かに内を見つめ、外との関係性について考えるひとときは、喧騒の中で忙しく生きる都会人には切実に欠けている場と時間です。願わくば、事前申込制の各参加型作品に、どのような方が応募されたのかも知りたいところ。今や国際的な観光スポットとなった森美術館で、文化や風土を越えて、何より作家(リー・ミンウェイ)と能動的に「つながろう」と思うヒトの存在こそが未来への希望だと思うからです。

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2014年10月22日 (水)

弘前大学 第7回国際シンポジウムに参加しました

M.シェーファーとの共著『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』の執筆者でもある今田匡彦研究室が中心となった、平成26年度弘前大学国際シンポジウム「Proposing a New Music Education View through Non-European Sound Practice」に参加しました。シンポジウムでは、ニュージーランド、フィンランド、カナダ、香港、パプア・ニューギニア、日本各国の音楽(教育)事情、また学生の日頃の研究成果を知り、弘前大学の学生&卒業生によるポスターセッションでは、それぞれの視点に深くコミットしながら話し合う貴重な機会が得られました。

 今回、各国ともに提示された共通キーワードは「Diversity」だったと思います。多民族社会における(音楽教育)の問題だけでなく、学校の「内」と「外」の音楽、そこに生じる’ズレ’も含め、世代間やコミュニティで多様化する’音楽’と教育の問題は、日本社会でもすでに課題となり始めています。学校や社会の多文化共生、異文化交流の切り口として音楽が機能する場面は多くみられます。しかし一方で、各国の民族音楽そのものが、若者の’リアル・ワールド’から遠い存在になりつつあるのは、どこの国にも共通した課題です。
 今やYouTubeによって世界中の音楽を聴くことができる時代。しかしグローバル化で世界の音楽が均質化することは、実は人類にとって大きな文化の損失と考えます。反対に音楽が文化の背景を越えてミックスされ、今までになかった新しい音楽も生まれる可能性は広がっています。しかし、音楽のコンテクストを無視することもまた文化の喪失につながる危険はある。自国の音楽文化の背景を正しく知ることも大切な音楽教育。そして、グローバル化に伴う音楽(教育)の未来図は予測不可能というのが正直な感想でした。私自身も、洋の東西を越えた音楽活動の経験と照らし合せながら、あらためて考えることが多かったです。

 東北で最初にキリスト教が入り、江戸時代から藩士が珈琲を飲み、洋食の街でもある弘前には開かれた風土があります。津軽文化と異国情緒がほどよく混ざり合うこの街で国際シンポジウムが開かれることにも大きな意義があると思いました。

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2014年10月14日 (火)

ヨコハマトリエンナーレ2014

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 8月1日のスタートから11月3日の閉幕まで、残すところ1ヶ月を切ったヨコハマトリエンナーレ2014に出かけました。日曜日ということもあって、国や時代を越えた国内外の美術作品が展示された港北ピア+横浜美術館の両会場は大勢の人で賑わっていました。展示内容の詳細については関連サイトをご覧頂ければと思いますが、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」を掲げた2014アーティスティック・ディレクター/現代美術家の森村泰昌氏の言葉を、是非ご紹介したいと思います。

「人生のうっかりした忘れもの、人類の恒常的な忘れもの、現代という時代の特殊な忘れものを思い出すための、いわば「忘却めぐり」の旅である」

 忙しい日常に追われて忘れてしまった/忘れたふりをしている、気づかなかった/気づいたのに知らないふりをしている数々の「忘却の領域」。そこに反応した芸術表現や表現者たちの作品からは、特に2011年3月以降の、私たちを取り巻く社会の在り様にも、あらためて芸術作品を通して光を当てたのだと思います。思い出すために、あるいは忘れないために。胸がチクリと痛くなったり、また時にはどこか懐かしい気持ちになる展示の数々でした。
 午前中の港北ピア会場では「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」のヨコトリ鑑賞ツアーに参加しました。彼らのワークショップには既に何度か参加していますが、参加するごとにゆっくりと自分が「育って」いることに気づきます。初めて参加した時の「気疲れ」や「言葉疲れ」のようなものがなくなって、本当にリラックスした状態で、初対面の皆さんと一緒に鑑賞の時間を楽しみました。
Photoその、決して「押しつけ」ではない緩やかな意見のやり取りには、クリストファー・スモールが「ミュージッキング(音楽する)」を「社会の理想的なつながりを学ぶための活動」と捉えたような、フラットで理想的なコミュニティのかたちが内在していると思いました。みえる人とみえない人が、美術作品を媒体に、みえる/みえないモノやコトについてあれこれ語るシンプルな鑑賞方法は、芸術の役割とは何かを捉え直す時間ともなるのでした。
 例えば、写真2枚目で盲導犬モナミとみんなが見ているのは、青いゴム風船が積み重なったオブジェです。現実ではありえない風景ですが、この作品を違和感なく受け入れている自分に気づきます。それは日ごろ認識している現実の「曖昧さ」であるとも感じました。しかし中には、この作品に対して全く違う感想を持つ人もいる。その「自己と他者の感性の違い」を楽しむことが出来るのが、このワークショップの面白さでもあります。本来世界は、人の数だけ存在するのかもしれません。それはサウンドウォーク(音の散歩)で他者の「耳」を知る、世界の多様性を体験する時間と同じです。
 ワークショップを終えた午後の横浜美術館では、対照的に内省的なひとりの鑑賞時間を過ごしました。「第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける」には、ケージの4分33秒の楽譜が展示されていて、まず「内側の沈黙に耳をすます」ことから始めました。
 そして何と言っても今回最も胸に響いたのは釜ヶ崎芸術大学 (写真上)の一連の作品です。「アール・ブリュット(生の芸術)」を「アウトサイダー・アート」と置き換えたりしますが、この展示はアウトサイダーではなく、この2014年ヨコトリの「中心」だと思いました。釜ヶ崎の「おっちゃん」たちの生の声、言葉そのものが、力強い存在感をもって「忘却の海」から迫ってくる。社会から忘れられ、「アウトサイダー」と見なされる人たちの世界に立てば、世界はあっという間に反転する。こちらがインサイドになる。目の前に広がる生き生きとした作品、その背景に垣間見える人と人とのつながりは、インサイドだと思っていた世界からは失われつつある。こちらの世界こそがアウトサイドなのだと思えてくる。そのインサイドとアウトサイドをつなぐ「生の芸術」としての言葉の海に圧倒されました。

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最後の写真は「牢屋」の作品の内側から写した写真です。この鉄格子ひとつで、フロアの親切な警備員さんが看守に見えてくる不思議。制服という人のアイデンティティを固定するものが、これほどの力を持っているのかとあらためて思いました。そして牢屋は内側に入ってみない限り、その内側にいる人の気持ちは決してわからないだろうということも、わかったのです。
世界の片隅にある、しかし力強い「生の声」に耳をすます。私の存在する、今あるこの世界を疑ってみる。そして他者の世界を知ろうとする。そこにつながりが生まれる。そのきっかけを与えてくれる芸術と出会い、発見する一日でした。

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2014年10月13日 (月)

「コネクト」通信更新しました。

「コネクト通信」更新しました。  

①音楽療法ボランティア「歌う♪寄り添い隊」を取材しました。

②桜美林大学芸術文化学群演劇専修 ダン発2014 束になってかかれ season1「謎のインディアン・サマー」

http://coconnect.jimdo.com

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2014年10月 8日 (水)

『大いなる沈黙へ~グランド・シャルトルーズ修道院』

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作品情報につきましては、公式サイト をご参照ください】
以下は、ササマユウコの個人的な感想です。

この3年半、M.シェーファーのサウンドスケープ思想と向き合って、たどり着いたのは「内(ウチ)と外(ソト)の関係性」でした。
体内の音楽と宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)がひとつとなり「沈黙」へと向かう『世界の調律』のプロセスには、シェーファー自身のヨガや禅の瞑想体験も色濃く影響していますが、何よりもそこにあるのは「祈り」です。
 震災後、私がシェーファーの『世界の調律』を何度も読み返した理由も、その「祈り」を感じ取りたかったからだと思います。’あの日’以来、祈らずにはいられない状況が続き、それは今も変わりありません。                                            
この映画では、旧約聖書 列王記の以下の文章が繰り返し登場します。
「地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」
ああ、これが「Peace and Quiet(嵐の後の静けさ)」なのだ!と思いました。『世界の調律』では、「平和と静寂」と言う言葉は世界中に存在することが記されています。10年以上前に初めてこの一文に出会ってから、この「Peace and Quiet」という言葉が作品づくりのみならず、人生のキーワードともなりました。なぜこの言葉が自分の心を強く捉えるのか、この映画にひとつの答えを見出した気がします。                                      
 アカデミズムではスピリチュアルやポエティックな表現は忌み嫌われますが、そうやって精神性を排除した20世紀型の科学が行き着いた先が、あの原発事故だった。しかし大多数のアカデミズムは今も「科学」であることを辞めません。芸術を語る言葉も「科学たれ」と。30年前にシェーファーがサウンドスケープについて発表した時、学会で失笑を買ったという事実が、そのまま世界の在り様を象徴しているように思います。だからこそ科学者が口にした「想定外」の意味を、私は一生考え続けるでしょう。                                         
 私には信仰はありませんが、カトリックとの縁は不思議と深い。函館元町カトリック教会の中に幼稚園がありましたし、大学も、母となった病院もカトリック系でした。(そしてこの病院は現在、母校の一部となっています)。震災後に通った弘前も、東北で初めてカトリックが入った地として教会が多く、訪れたことはありませんが、佐藤初女さんの森のイスキアも存在します。
 だからでしょうか。この映画の中の「静寂」には懐かしさや馴染みがありました。幼い頃に慣れ親しんだ礼拝堂の空気感や鐘の音がよみがえります。逆の言い方をすれば、この映画の中に、いわゆる「静寂」や「沈黙」は存在しません。ケージが無響室で体内の音に気づいたように、「人が生きること=音を立てること」だと気づかされます。体内の音はもちろん、靴音、布が擦れる音、蒔を割る音、食事の音、鐘の音、讃美歌・・・修道士たちは四六時中、生命と祈りの音を立てている。修道院を取り巻く世界もまた音で満ちています。鳥の声、風で揺れる木々の音、雨の落ちる音、蒔が燃える音、雪の降る音、牛のカウベル・・・世界の調和(ハーモニー)がきこえてくる。                                              
 ただひとつ「沈黙」があるとすれば、それは修道士の「内なる中心点」なのでしょう。そこが静かに保たれることが、神の声を聴くことなのだと。本当は、世界の音が美しく調和していたら修道院は必要ないのかもしれません。それにはあまりに世界はうるさすぎる。「世俗」とはつまり、騒音に覆われ、内と外が分断された世界のこと。だからこそ、まずは体内の音に耳をすますことから始めよう。サウンドスケープ思想の出発点も、そこにあります。
 もちろん「ノイズミュージック」の面白さ同様、世俗の音風景もカラフルな魅力に溢れているとは思います。でもそこから「内なる中心点」を見出すことは、本当に難しい。壮大な点描画から、ただ一点の「透明な点」を見出すような作業です。その一点を探し出すには、人生はあまりに短すぎるのだとも思います。                                          
余談ですが、
興味深かったのが、映画館場内の「音風景(サウンドスケープ)」。
気持ちよさそうな寝息、引き付けのようないびき、始終お腹が鳴ってそのたびに咳払いをする人、、、様々な生命の音がきこえていました。
 全員が黙って静寂に包まれた映画を観るという行為も、どこか修行と似ています。

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2014年10月 6日 (月)

「空ノ耳」ササマユウコ sora no mimi by Yuko Sasama

台風で時間がぽっかり空いたので、

この3年間撮りためた空を集めてみました。

曲は2000年に信州国際音楽村で録音した即興「空ノ耳」

ソラミミ、ソラミミ・・・聞こえてきます。

(C)2001 BEN-TEN Records BTR-001

https://www.youtube.com/watch?v=0V2wSvBdvnI

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