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2014年11月13日 (木)

フェスティバル/トーキョー14 『春の祭典』

 はじめての『春の祭典』は学生時代に初来日したピナ・バウシュだった。今では信じられないことだけど、ほとんど観客のいない国立劇場で、泥だらけで踊るダンサーたちの’存在’に出会った衝撃が私のハルサイの原点となっている。映像をふくめ、それからいくつのハルサイを観ただろうか。それぞれに個性的で忘れ難いのは、演出家や振付家の「音楽のチカラに挑もう(負けまい)とする気迫」が尋常ではないからだろう。作り手さえも音楽の生贄となりかねない、「食うか食われるか」の真剣勝負であることを彼らは肌身で感じている。バレエ音楽や標題音楽とはかけ離れた、一種の音楽の「怖さ」を体感する場となるはずだ。

 昨日から池袋の東京芸術劇場で始まったハルサイも、根底にあるテーマは「境界線を超える挑戦」だったと思う。昨今の息苦しいこの世の中で、「やってまえ!」的な度胸を見せてくれるのは女性たちだ。総合演出・振付の白神ももこ、毛利悠子(美術)、宮内康乃(音楽)+つむぎね。残念ながらモモンガ・コンプレックスの舞台を観たことがないので演出を語る資格がないのだけど、東北の伝統芸能や桜美林大学木佐貫メソッドを下地に「ハルサイ」らしく’事件性’のある作品になっていたと思う。このハルサイはアリか?ナシか?おそらく’想定外’であることは間違いない。それと同時に、原発事故という人類史上最大級の想定外の後に生まれた世界をプリミティブな生命力で生き抜こうとする宣言、いや覚悟のようにも見えた。
 一方、つむぎねを知るひとりとしては、今回は彼女たちとは明らかに異質の世界に飛び込んだ「挑戦」だったと思う。衣装を含め、それまで積み上げてきたイメージを’壊す’のは勇気がいることだ。そして、そこをしなやかに引き受けていく姿勢こそが今回のF/Tのテーマ「境界線上で、あそぶ」そのものだったと言えるだろう。壊したくないと守るあまりに大事故を起こすくらいなら、壊しながら前に進む方がよほど創造的だ。今後、つむぎね音楽の静謐さを内包した世界感に、ダンサーや美術が絡む新しい総合芸術の可能性も見えた試みだった。
 ちょうど開演前に、今日マチ子が原発事故後の世界を扱った『みつあみの神様』を読んでいて(何気なく本屋で手に入れて)、そういう彼女も1980年生まれだと気づく。同年代の毛利悠子の舞台装置には共通する世界感も感じられた。30代前半の女性アーティストたちが今面白い。大きな閉塞感に包まれてしまいそうな日常と非日常を、これからも柔らかにつないで欲しい。

 『春の祭典』は16日の千秋楽までに、おそらく毎日試行錯誤を繰り返しながら有機的に変化していく作品だろう。初日と千秋楽を見比べてみるのも面白いかもしれない。

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