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2015年6月の4件の投稿

2015年6月10日 (水)

写真考

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私にとっての「アート」とは、もはや自己表現や自己実現ではなく、語源に寄り添った生きるための「技術」に他ならない。写真を撮るのは好きだけれど道具のカメラは何でもいいと思う。昭和生まれの近眼のせいか、最近のクリアすぎる画像や映像にはどうも「リアル」を感じられない。人ではなく「機械」が撮ったものだと認識してしまうのだ。「いい写真だね」ではなく、「最近のカメラって凄いね」という感じだろうか。これは映画についても同じで、ビデオ画像よりもフィルムの方が好きである。
「きれいだな」とは思うのだけど、ピンぼけや眠い写真、荒い画像に「目」の延長としての身体性を感じてしまうのかもしれない。これは視覚に限らず、聴覚でも同じである。ノイズのないデジタルリマスター盤などは、何か大事な空気感までカットされている感じがする。
ガラスレンズの(特にライカで)撮影されたフィルム写真の「きれい」にある独特の透明感は、デジタルのそれとは違う。かつての写真家は、人によっては撮影とは別の暗室作業の「技術」も必要とした。もちろん連写も出来ない。だからこそブレッソンの「決定的瞬間」は決定的だったのだし、その一瞬一枚に尊さがあった。「撮影技術」が「アート」と呼ばれた、プロフェッショナルたちが存在した最後の時代である。今は一枚の写真を生むまでの技術の鍛錬に費やす時間が省かれ(加工修正も自由になり)、時間の切り取りも自由になった。だからこそ「視点」が写真家のオリジナルの全てとも言える。それはもはやカメラを通さずに、日常の中で訓練するものなのかもしれないけれど。周囲を見渡しても「きれいだな」より先に「いい写真だな」と思える作品を撮る人たちは、当たり前なのかもしれないけれど年齢に関わらずその人だけの「視点」を持っている。

プロのピアニストのサンプリング音が鳴るデジタルピアノは、本来その音を出せるようになるまでの演奏技術の訓練を大幅に省略した。その結果、アコースティックピアノを「鳴らす」ことが出来ない演奏者をずいぶんと増やしてしまったようにも思う。指は動くけれど、音が「美しい」演奏家にはなかなか出会わない。音にオリジナリティを求められない現代のピアニストは、個性を発揮するために音楽を「解釈」しようとするのではないだろうか。それは、音楽以前の「オト」に立ちかえろうとする動きとは正反対である。

こちらは 、今では京都在住のアーティストの友人と1年ほどやっていた「写真部」のブログ。ファインダーもついていないトイカメラで、「勘で」撮影した震災前の東京の風景。私はなぜか正方形が好きらしい。

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2015年6月 8日 (月)

劇団ままごと『わが星』を観ました

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路上観察をご一緒している山内健司さん(青年団)も、新メンバーとして出演中の劇団ままごと「わが星」を先日初めて観ました(再再演)。以前FBではご紹介しましたが、この芝居の軸となっているクチロロの「00:00:00」を、311後によく聞いていました。何がそんなに自分を捉えたのかと思い返すと、社会の混乱の中で規則正しく1秒が刻まれる時報の純音をきいて心を落ち着けていたように思います。宇宙の音楽(ムジカムンダーナ)を「円」に置き換え、内と外をつなぐ「関係性」としてのサウンドスケープ思想を再定義していた頃でした。
話しを戻すと、この舞台の印象は「ミュージカル」や「音楽劇」ではありません。配布された演出家(柴幸男氏)のノートにも、今回の稽古では「音楽」を使わない時間が多かったと書かれていました。確かに俳優たちの台詞はグルーヴ感のある「ラップ」というよりも、あくまでもコトバ(台詞)の表現である「演劇」なのです。専門ではないので言い切れませんが、一定のリズムやテンポの中で繰り広げられる、シラブル(音節)やモーラに則った現代詩のようなコトバで構築されている「音楽的な時間」というか。その手法は口ロロ的であるとも言えますし、だからこそ音楽と演劇の「境界線上」にある作品としても注目しました。
どちらにしても、規則正しく刻まれる時報を基調音に伸縮する時間の縦軸と横軸のイメージが、サークルの中心点(団地のちゃぶ台)からどこまでも壮大に宇宙(ソト)へと広がっていく。そしてその「手に負えない切なさ」に理由も無く涙が出てしまう。ミクロとマクロのコスモス(宇宙)の物語です。
「家族」として擬人化された太陽系の惑星たちに、自分の「今」や「過去」や「未来」を重ね合わせながら「時間」の伸縮を感じる体験。この日はちょうど女子高生で埋まった客席の様子も同時に視野に入り、個人的な「時間」も感じられて面白かったです。若い星、もう若くない星。生まれては死んでいく生命のリズム。時報の1秒は自らの鼓動であり、それは体内のオンガクだとあらためて思いました。
公演には未就学児童バージョンもあるそうで、きっと老若男女すべての世代に届く普遍的な作品となると思います。舞台をひとりで観た中学生の娘が、その日の夕ご飯の食卓で「星っていいよねえ」としみじみと呟いていたのが印象的でした。

円形の宇宙、ステージの効果的な使い方や照明は、音楽人たちにもぜひ参考にしてほしいところでした。
 
〇 「わが星」オフィシャルサイト http://wagahoshi.com/
この舞台は、三鷹での一か月公演の後は小豆島公演も控えています。

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2015年6月 4日 (木)

『親のための新しい音楽の教科書』

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ここ数年、科学や社会学や歴史学など芸術領域の外側にいる研究者たちが、「音楽」や「音楽教育」を切り口(フレーム)に自らの専門を考察する手法が増えたように思います。芸術の内側では距離が近すぎて気づき難かった問題を、客観的かつ俯瞰的に捉え返す研究動向には大きな意義を感じます。何より世界を「内側からデザインする」ことを目指したサウンドスケープ思想との共通性がある。すでに半世紀近く前のシェーファーが大学のコミュニケーション学科を立ち上げた(西洋クラシックの音楽教育から追い出された)理由や、その先見性も見えてきます。

しかし一方で、どうにも「もやもや」が残る考察に出くわすことがあります。それはもう音楽家の生理的な感覚とも言えるのですが、その「もやもや」の正体が何なのかをずっと考えています。

それは「音楽の定義の曖昧さ」とも言えますし、思考における芸術性や哲学の欠落とも言えます。「音楽」を疑う姿勢、「音楽とは何なのか」という専門家(演奏家)なら当たり前に突き詰めていく思考のプロセスが、コトバの背景からすっぽりと抜け落ちている。芸術よりも科学、しかも西高東低と耳が錯覚しがちなポリフォニーの「マジック」に魅せられ、「音楽を(で)語る自分」に囚われてしまっているというか。その感覚は明治維新以降、この国が必死にアタマで身に着けた「教養としての音楽」の域を出ていないと感じます。「学際的」というよりも、音楽をプラグマティックに(本人の意志は別として)利用しているようにもみえる。科学的に構築され訓練されたコトバ(思考)で、音楽(芸術)の内側を力でねじ伏せていくような一方的な関係性も透けて見えてしまいます。音楽の内側にも当然ある「先行研究」へのリスペクトが感じられないというか、無視しているというか。

その「もやもや」を解消するように、音楽の内側から出版されたのが若尾裕先生の『親のための新しい音楽の教科書』でした。若尾氏は東京藝術大学で作曲を学び、『世界の調律』(M.シェーファー)の共訳者であり、現在は臨床音楽学を専門とする広島大学/神戸大学の名誉教授です。あくまでもクリエイティブで芸術的な視点から音楽教育や音楽療法を捉え、即興演奏からも音楽の可能性を広げられている。平易な文章で書かれた数々の著書はどれも深く音楽的で、何より芸術の神髄に迫っています。

この本は音楽の専門知識がなくても、誰にでもわかりやすく、しかし非常に音楽的な思考に基づいた文章とともに、私の中にくすぶっていた「もやもや」を一気に吹き飛ばしてくれました。「わたしたちにとっての「音楽」ということばをつかって、世界中の「音楽」を一律にとらえることじたい、考え直してみる必要があるようです(本書より)」と、まさに現代の世界に通奏する問題の本質に柔らかな姿勢で切り込んでいきます。

そもそも「オンガク」とは何ぞや。まずはそこに立ち返り、この国の教育が当たり前に「音楽」と呼んできたものを疑ってみる。そこから今の私たちが抱える社会の問題の「本質」も見えてきます。学際的に音楽を研究されている方にこそ、ぜひ読んで頂きたい本です。

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2015年6月 1日 (月)

境界の世代

このところサウンドスケープ思想、その源流にあるムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)を本能的に知る若手の現代音楽家/演奏家の活動に注目している。彼女/彼らは概ね1980年代半ば生まれで、音楽的な背景はアカデミックな現代音楽から日本の伝統芸能、土着的な民族音楽など様々だ。彼女/彼らは生活の中で身体的リズムに寄り添ったサウンドスケープを知る最後の世代とも言える。例えば駅の有人改札の切符を切るリズム、地場産業のアナログの機械音。。同時にファミコンの登場でゲーム音楽にも親しんだ耳を持つ。東京と地方でも、まだ音風景に明らかな違いもきこえた時代だったはずだ。幼い頃にバブルは崩壊し、物心ついた時から一度も「日本経済の右肩上がり」を実感したことのない堅実で地に足のついた世代である。自己実現や自己表現をあからさまにせず、芸術の内側に閉じこもることなく、ワークショップ等の社会的な活動を視野に入れながら、何より自然体で音楽的背景や境界を越えていく。その姿勢は「謙虚」である。本来は「自然現象」であるはずの「オト」を、人間の作為で組み立てていく「セイヨウのオンガク」が持つある種の「おこがましさ」に、今の世界が抱えるあらゆる問題の根源を重ね合せているのかもしれない。

人間が形成する現代社会のシステムの中では、音楽が「鳴り響く森羅万象(シェーファー)」として存在することは、もはや不可能に近い。社会のシステムに則って生まれる「音楽」の行き着く先は、クリエイティビティと引き換えに手に入る権威か名声か商品化か、それに伴う忙しすぎる日常である。もっと自由に自然に、「あるがままに」オンガク以前のオトに還ろうとする行為。それは原点回帰とも少し違う、音楽家が自らの内側を「無」にするような時間である。なぜなら、オトを出す目的をコトバにした途端、そこには「作為」が生まれてしまう。どこにも属さないニュートラルな「オンガク」であろうとする実験は、街中に溶け込む音の風景を紡ぎだす行為に近い。個の作家性や作品としての完成度とは違う「オトを紡ぐプロセス」、その先に生まれる「音の風景」を追求する。その風景からきこえてくるのは圧倒的な才能を持つ「カリスマ」を求めた20世紀とは明らかに違う、調和/柔らかな関係性である。

去る5月22日に渋谷のUPLINKで開催された「音を織り、織りから聞く Vol.1」(寒川晶子・伊藤悟・野中淳史)や、翌日の「Tours Vil@HIGURE(佐藤公哉企画/31日まで開催)」で行われた「つむぎね」(宮内康乃主宰)のパフォーマンスには、まさにこの潮流にあるオトが響いていた。
寒川と伊藤は「ピアノ」と「織機」の共通性を、つむぎね・宮内は身体性(呼吸・声)のモジュールを、それぞれ「オトを紡ぐ道具」の視点から捉え直す。それは日常と非日常、内と外をつなぎ、そこに生まれる関係性に「オンガク」を再発見する芸術(アート)である。興味深いのは、両者に「紡ぐ」という行為や言葉が共通のキーワードとして存在する点である。お互いに手を伸ばせば届く場所で活動を展開していることから、いずれ新しい化学反応が生まれる予感もある。身体的ではあるが生理的ではない、あくまでも「オト」に立ち返ったマージナルなサウンドスケープが展開されると面白い。

先日『視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ』で出会った東京工業大学の伊藤亜紗准教授。現在、東京大学の駒場博物館で『境界線を引く⇔越える』を開催中の渡部麻衣子特任講師。領域は違うが、彼女たちも同じ1980年代半ばの生まれである。日常と非日常を柔らかにつなぐ研究姿勢や感性が、前述の音楽家たちとも共通する点が非常に興味深い。硬直化しがちな20世紀型の男性的で構築的な思考とは上手に距離を置きながら、専門領域を越えて社会にも新しい風を吹き込んでほしいと思う。本来はひとつにあった科学と芸術がふたたび手をつなぐ試みに注目していきたい。

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