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2015年6月 4日 (木)

『親のための新しい音楽の教科書』

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ここ数年、科学や社会学や歴史学など芸術領域の外側にいる研究者たちが、「音楽」や「音楽教育」を切り口(フレーム)に自らの専門を考察する手法が増えたように思います。芸術の内側では距離が近すぎて気づき難かった問題を、客観的かつ俯瞰的に捉え返す研究動向には大きな意義を感じます。何より世界を「内側からデザインする」ことを目指したサウンドスケープ思想との共通性がある。すでに半世紀近く前のシェーファーが大学のコミュニケーション学科を立ち上げた(西洋クラシックの音楽教育から追い出された)理由や、その先見性も見えてきます。

しかし一方で、どうにも「もやもや」が残る考察に出くわすことがあります。それはもう音楽家の生理的な感覚とも言えるのですが、その「もやもや」の正体が何なのかをずっと考えています。

それは「音楽の定義の曖昧さ」とも言えますし、思考における芸術性や哲学の欠落とも言えます。「音楽」を疑う姿勢、「音楽とは何なのか」という専門家(演奏家)なら当たり前に突き詰めていく思考のプロセスが、コトバの背景からすっぽりと抜け落ちている。芸術よりも科学、しかも西高東低と耳が錯覚しがちなポリフォニーの「マジック」に魅せられ、「音楽を(で)語る自分」に囚われてしまっているというか。その感覚は明治維新以降、この国が必死にアタマで身に着けた「教養としての音楽」の域を出ていないと感じます。「学際的」というよりも、音楽をプラグマティックに(本人の意志は別として)利用しているようにもみえる。科学的に構築され訓練されたコトバ(思考)で、音楽(芸術)の内側を力でねじ伏せていくような一方的な関係性も透けて見えてしまいます。音楽の内側にも当然ある「先行研究」へのリスペクトが感じられないというか、無視しているというか。

その「もやもや」を解消するように、音楽の内側から出版されたのが若尾裕先生の『親のための新しい音楽の教科書』でした。若尾氏は東京藝術大学で作曲を学び、『世界の調律』(M.シェーファー)の共訳者であり、現在は臨床音楽学を専門とする広島大学/神戸大学の名誉教授です。あくまでもクリエイティブで芸術的な視点から音楽教育や音楽療法を捉え、即興演奏からも音楽の可能性を広げられている。平易な文章で書かれた数々の著書はどれも深く音楽的で、何より芸術の神髄に迫っています。

この本は音楽の専門知識がなくても、誰にでもわかりやすく、しかし非常に音楽的な思考に基づいた文章とともに、私の中にくすぶっていた「もやもや」を一気に吹き飛ばしてくれました。「わたしたちにとっての「音楽」ということばをつかって、世界中の「音楽」を一律にとらえることじたい、考え直してみる必要があるようです(本書より)」と、まさに現代の世界に通奏する問題の本質に柔らかな姿勢で切り込んでいきます。

そもそも「オンガク」とは何ぞや。まずはそこに立ち返り、この国の教育が当たり前に「音楽」と呼んできたものを疑ってみる。そこから今の私たちが抱える社会の問題の「本質」も見えてきます。学際的に音楽を研究されている方にこそ、ぜひ読んで頂きたい本です。

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