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2015年6月 1日 (月)

境界の世代

このところサウンドスケープ思想、その源流にあるムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)を本能的に知る若手の現代音楽家/演奏家の活動に注目している。彼女/彼らは概ね1980年代半ば生まれで、音楽的な背景はアカデミックな現代音楽から日本の伝統芸能、土着的な民族音楽など様々だ。彼女/彼らは生活の中で身体的リズムに寄り添ったサウンドスケープを知る最後の世代とも言える。例えば駅の有人改札の切符を切るリズム、地場産業のアナログの機械音。。同時にファミコンの登場でゲーム音楽にも親しんだ耳を持つ。東京と地方でも、まだ音風景に明らかな違いもきこえた時代だったはずだ。幼い頃にバブルは崩壊し、物心ついた時から一度も「日本経済の右肩上がり」を実感したことのない堅実で地に足のついた世代である。自己実現や自己表現をあからさまにせず、芸術の内側に閉じこもることなく、ワークショップ等の社会的な活動を視野に入れながら、何より自然体で音楽的背景や境界を越えていく。その姿勢は「謙虚」である。本来は「自然現象」であるはずの「オト」を、人間の作為で組み立てていく「セイヨウのオンガク」が持つある種の「おこがましさ」に、今の世界が抱えるあらゆる問題の根源を重ね合せているのかもしれない。

人間が形成する現代社会のシステムの中では、音楽が「鳴り響く森羅万象(シェーファー)」として存在することは、もはや不可能に近い。社会のシステムに則って生まれる「音楽」の行き着く先は、クリエイティビティと引き換えに手に入る権威か名声か商品化か、それに伴う忙しすぎる日常である。もっと自由に自然に、「あるがままに」オンガク以前のオトに還ろうとする行為。それは原点回帰とも少し違う、音楽家が自らの内側を「無」にするような時間である。なぜなら、オトを出す目的をコトバにした途端、そこには「作為」が生まれてしまう。どこにも属さないニュートラルな「オンガク」であろうとする実験は、街中に溶け込む音の風景を紡ぎだす行為に近い。個の作家性や作品としての完成度とは違う「オトを紡ぐプロセス」、その先に生まれる「音の風景」を追求する。その風景からきこえてくるのは圧倒的な才能を持つ「カリスマ」を求めた20世紀とは明らかに違う、調和/柔らかな関係性である。

去る5月22日に渋谷のUPLINKで開催された「音を織り、織りから聞く Vol.1」(寒川晶子・伊藤悟・野中淳史)や、翌日の「Tours Vil@HIGURE(佐藤公哉企画/31日まで開催)」で行われた「つむぎね」(宮内康乃主宰)のパフォーマンスには、まさにこの潮流にあるオトが響いていた。
寒川と伊藤は「ピアノ」と「織機」の共通性を、つむぎね・宮内は身体性(呼吸・声)のモジュールを、それぞれ「オトを紡ぐ道具」の視点から捉え直す。それは日常と非日常、内と外をつなぎ、そこに生まれる関係性に「オンガク」を再発見する芸術(アート)である。興味深いのは、両者に「紡ぐ」という行為や言葉が共通のキーワードとして存在する点である。お互いに手を伸ばせば届く場所で活動を展開していることから、いずれ新しい化学反応が生まれる予感もある。身体的ではあるが生理的ではない、あくまでも「オト」に立ち返ったマージナルなサウンドスケープが展開されると面白い。

先日『視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ』で出会った東京工業大学の伊藤亜紗准教授。現在、東京大学の駒場博物館で『境界線を引く⇔越える』を開催中の渡部麻衣子特任講師。領域は違うが、彼女たちも同じ1980年代半ばの生まれである。日常と非日常を柔らかにつなぐ研究姿勢や感性が、前述の音楽家たちとも共通する点が非常に興味深い。硬直化しがちな20世紀型の男性的で構築的な思考とは上手に距離を置きながら、専門領域を越えて社会にも新しい風を吹き込んでほしいと思う。本来はひとつにあった科学と芸術がふたたび手をつなぐ試みに注目していきたい。

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