写真考
私にとっての「アート」とは、もはや自己表現や自己実現ではなく、語源に寄り添った生きるための「技術」に他ならない。写真を撮るのは好きだけれど道具のカメラは何でもいいと思う。昭和生まれの近眼のせいか、最近のクリアすぎる画像や映像にはどうも「リアル」を感じられない。人ではなく「機械」が撮ったものだと認識してしまうのだ。「いい写真だね」ではなく、「最近のカメラって凄いね」という感じだろうか。これは映画についても同じで、ビデオ画像よりもフィルムの方が好きである。
「きれいだな」とは思うのだけど、ピンぼけや眠い写真、荒い画像に「目」の延長としての身体性を感じてしまうのかもしれない。これは視覚に限らず、聴覚でも同じである。ノイズのないデジタルリマスター盤などは、何か大事な空気感までカットされている感じがする。
ガラスレンズの(特にライカで)撮影されたフィルム写真の「きれい」にある独特の透明感は、デジタルのそれとは違う。かつての写真家は、人によっては撮影とは別の暗室作業の「技術」も必要とした。もちろん連写も出来ない。だからこそブレッソンの「決定的瞬間」は決定的だったのだし、その一瞬一枚に尊さがあった。「撮影技術」が「アート」と呼ばれた、プロフェッショナルたちが存在した最後の時代である。今は一枚の写真を生むまでの技術の鍛錬に費やす時間が省かれ(加工修正も自由になり)、時間の切り取りも自由になった。だからこそ「視点」が写真家のオリジナルの全てとも言える。それはもはやカメラを通さずに、日常の中で訓練するものなのかもしれないけれど。周囲を見渡しても「きれいだな」より先に「いい写真だな」と思える作品を撮る人たちは、当たり前なのかもしれないけれど年齢に関わらずその人だけの「視点」を持っている。
プロのピアニストのサンプリング音が鳴るデジタルピアノは、本来その音を出せるようになるまでの演奏技術の訓練を大幅に省略した。その結果、アコースティックピアノを「鳴らす」ことが出来ない演奏者をずいぶんと増やしてしまったようにも思う。指は動くけれど、音が「美しい」演奏家にはなかなか出会わない。音にオリジナリティを求められない現代のピアニストは、個性を発揮するために音楽を「解釈」しようとするのではないだろうか。それは、音楽以前の「オト」に立ちかえろうとする動きとは正反対である。
こちらは 、今では京都在住のアーティストの友人と1年ほどやっていた「写真部」のブログ。ファインダーもついていないトイカメラで、「勘で」撮影した震災前の東京の風景。私はなぜか正方形が好きらしい。
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