eje「ものおと」@T-Art Gallery など
オト、モノ、そして人との出会いは本当に不思議で、そのほとんどが偶然とは言え、どこか運命的と感じています。20年前に池袋リブロで’偶然’手に取ったマリー・シェーファーの『世界の調律』もしかり(女性の著者だと思った)。
現在、非公式で活動している路上観察学会分科会も、数々の偶然が重なって昨年の11月11日から始まりました(この話も長くなるので、また別の機会に)。「まちを歩く」というシンプルな活動ですが、ここからまた予期せぬ出会いが生まれるので本当に面白いなと思います。今日はそんな「出会い」からひとつをご紹介します。
5月の路上観察の個人活動時間にふと立ち寄った東大駒場博物館で、私はある「オト」に出会いました。入り口の案内板にあった『境界線を引く⇔越える』 のタイトルに惹かれて、何となく足を踏み入れた館内で、前身が耳になるような瞬間がありました。
その物静かなオトたちは、独得な「余白」をつくりながら会場を包み込んでいました。おそらく「きく」ことを意識しなければ、存在に気づかない人もいたかもしれません。それほど自然に、館内のサウンドスケープと調和していました。この日の路上観察では、個人的に「サウンド・ウォーク(音の散歩)」をテーマに歩いていたので、あらかじめ耳がひらいていたこともありましたが、音が生み出す「余白」に耳は釘づけになっていました。
そして館内をひとめぐりして会場を出ようとした時に、ある男性から声をかけられました。この展示の主要アーティスト/画家の池平徹兵さんでした。展示されていた福祉施設の協働作品や顕微鏡絵画のワークショップ、オフィス・バクテリアの作品など、今回のテーマである美術や科学、障害のある/なし、さまざまな「境界線」を越えた「視点」を提示されていて、いわゆる「アール・ブリュット」とは違う質感を持った興味深い活動でした。(科学技術の領域からこの展示を企画された渡部麻衣子特任講師とは、数日後に出会うことになります)。
そして会場の「オト」がアーティスト「gO」さんの作品であることを池平さんから伺いました。駒場の研究所で集められ、コラージュされた作品ときいて、そのオトが館内の音風景となじんでいた理由が解った気がしました。さらに会話の中で「gO」さんが間もなく同じ街の住人となることがわかり、その偶然性から「是非、連絡を取ってみてください」と告げられました。池平さんが打合せに向かう途中の、ほんの10分程の会話でした。それが「gO」さんの「オト」との出会いです。
先週まで、天王洲アイルにある寺田倉庫T-Art Galleryでは、「コレクターとアーティスト」シリーズとして(推薦者:笹川直子)、gOさんが参加するアートユニットeje(エヘ)展が開催されていました(2018年現在、ejeは解散)。ejeは2013年度岡本太郎賞特別賞を受賞した美術領域のユニットですが、作品の要素に「オト」があり、その向き合い方がサウンドスケープの思想とも非常に近い感覚。音楽家と美術家のユニットとして、お互いの領域が調和したマージナルな作品づくりをしています。
今回展示されたのは、モノのために作曲された「オト」の作品「ものおと」。ちょうど東京に滞在中で、2007年のCD『生きものの音』(真砂秀朗、ササマユウコ、等々力政彦)のジャケットを制作したHisaeさんと共に出かけました。現在、彼女は一年の半分をインドで暮らし九州を拠点にしていますが、これもまた何かの縁でしょう。
ejeの展示会場は、どこか懐かしさを感じる小さな「部屋」でした。
中央にはアンティークの一人用ソファ型ロッキングチェアが置かれ、周辺の机や床の上には、使い古された鉛筆の束やミシン、壁には蝶の標本や帽子。モノたちは以前からずっとそこに在ったような時間の蓄積を感じる佇まいでした。部屋の訪問者はまず入り口で靴を脱ぎ、イヤフォンを手に取り、住人不在の部屋に足を踏み入れます。茶室に入るような感覚というのでしょうか。その瞬間、私たちはejeの音世界の旅人となるのです。
この部屋に置かれたモノたちには、ある「仕掛け」がありました。それぞれにひっそりと「ピンジャック」がついている。そこが非日常への入り口となっているのです。手に持ったイヤフォンのプラグをその「非日常」に差し込むと、ひとつひとつのモノの「内側」から、オトが聞こえてきました。ある物語の音の風景になっていたり、歌(ボイス)など、モノと作曲者の関係性によってひとつひとつのコンセプトが違います。しかし統一されたejeの世界感がある。東大博物館で最初に耳にした「余白」の世界でした。モノの中心と自分をつなぐのは(gOさんはそれを‘接着剤’と言う)、イヤフォンのコードの中を伝わるオト。それは駒場博物館の会場を包み込んでいたように私たちの内側を満たしていくのです。しかしそれは、訪問者がピンジャックを「探しあてる」ことがない限り、決して出会うことがありません。そもそも部屋の「境界線」を越えない限りは何も始まらない。日常と非日常、「内」と「外」をつなぐ、その関係性がアートへと昇華するか否かは、実は部屋の訪問者に託されている。リレーショナルな作品です。gOさんは「会場を出た後で、それが数日経ってからでもいいのですが、モノと対峙した時にそこに思わず’ピンジャック(非日常)’を探してしまうような、そんな気づきのある作品になれば」と一週間後にお会いした際に語ってくれました。
イヤフォンのコードから耳の穴を通って、オトが内側に音が入っていく体験は考えたら非常に生理的です(シェーファーは官能的とさえ言います)。科学的に言えば「脳を刺激する」ということでしょうか。それは何だか即物的ですが、脳だけでなく全身の記憶が呼びさまされるような感覚がありました。個人的には古いミシンが踏まれる音、ボトルシップの波の音に、いつもは忘れているような幼い日の時間の感覚、小学生だった「ある日」の午後の部屋の音風景や光景が鮮やかによみがえる体験をしました。同じ部屋にいたHisaeさんも、幼い頃に交わした友人との「モノ」を通したやりとりを思い出したと話していました。
gOさんのつくる「余白」は、呼吸のリズムにも寄り添います。緊張しすぎず、緩みすぎない「平和と静寂」にたどりつく。自分の中心点にある「しん」とした場所にオトが染み入り、過去と現在の時間が重なり、ある種の瞑想状態に入るような感覚でしょうか。この部屋ではずいぶんと長い時間を過ごしたように思います。久しぶりに会ったHisaeさんとも、その間ほとんどコトバを交わしませんでした。途中、何人かの「訪問者」が現れましたが、対峙するモノにイヤフォンをさして、思い思いに過ごしていました。この部屋の光景は一見すると「分断された個」の集合体のようにも見えますが、同じ体験をしている訪問者の間には「ゆるやかなつながり」や「共感」が生まれていたと思います。それはすでに「オトを知っている」先人が、後から来た訪問者に対して抱く感情なのだとは思いますが、少なくとも孤独ではありませんでした。対話が始まるのはむしろギャラリーを後にしてからでした。どの「ものおと」が好きだったか、どんな記憶が呼び覚まされたのか話したくなる。個人的な経験を分かち合いたくなるのです。アート・ギャラリーだけでなく図書館や街中など設置場所にもさまざまな可能性を感じる作品でした。
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そして1週間後、gOさん本人がコネクトのオフィスに遊びに来てくれました。
作家のサウンドスケープを知っていると、初対面とは思えない不思議があります。本人の内と外にズレがないというか。「技術」や「コンセプト」が前面に出たメディア・アートとは一線を画している作家なのだと思います。この春から(2015年)福祉の領域でもディレクションを始めるgOさんは、福祉の「門外漢」だからこそ先入観に囚われずに柔軟な発想が可能になることでしょう。これは「アールブリュット」や、アーティストが障害者をサポートするような関係性とも違う、さまざまな境界線を自由に行き来する新しい芸術活動のスタイルだと思いました。
40年前に出版された『世界の調律』(1986 平凡社)の中で、M.シェーファーはサウンドスケープが「社会福祉」へとつながる可能性を、たった一行ですが示唆しています(しかし当時のアカデミックな音楽界には、その考えがほとんど理解されなかった)。若尾裕先生の『音楽療法を考える』(2006 音楽之友社)でも、福祉領域にあるコミュニティ・ミュージック、その「表現の自由」の可能性について言及されています。そしてejeのこころみは、リレーショナル・アート(芸術家と鑑賞者という’立ち位置の区別’がある)を一歩先に進め、社会の中で生きる「人と人」の新しい関係性の探求です。モノと人をつなぐ、人と人をつなぐモノをや場をつくる。対峙する人の「ピンジャック」を探しあて、内側の声を「きこう」とする行為を生む。それは「対話」と言い換えることができるのだと思います。
(2018年追記・加筆。現在、ejeは解散し、gOさんは立石剛さん個人名義で創作活動を開始しています)。
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