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2015年7月の3件の投稿

2015年7月16日 (木)

eje「ものおと」@T-Art Gallery など

オト、モノ、そして人との出会いは本当に不思議で、そのほとんどが偶然とは言え、どこか運命的と感じています。20年前に池袋リブロで’偶然’手に取ったマリー・シェーファーの『世界の調律』もしかり(女性の著者だと思った)。

Eje

現在、非公式で活動している路上観察学会分科会も、数々の偶然が重なって昨年の11月11日から始まりました(この話も長くなるので、また別の機会に)。「まちを歩く」というシンプルな活動ですが、ここからまた予期せぬ出会いが生まれるので本当に面白いなと思います。今日はそんな「出会い」からひとつをご紹介します。

 5月の路上観察の個人活動時間にふと立ち寄った東大駒場博物館で、私はある「オト」に出会いました。入り口の案内板にあった『境界線を引く⇔越える』 のタイトルに惹かれて、何となく足を踏み入れた館内で、前身が耳になるような瞬間がありました。

その物静かなオトたちは、独得な「余白」をつくりながら会場を包み込んでいました。おそらく「きく」ことを意識しなければ、存在に気づかない人もいたかもしれません。それほど自然に、館内のサウンドスケープと調和していました。この日の路上観察では、個人的に「サウンド・ウォーク(音の散歩)」をテーマに歩いていたので、あらかじめ耳がひらいていたこともありましたが、音が生み出す「余白」に耳は釘づけになっていました。
 そして館内をひとめぐりして会場を出ようとした時に、ある男性から声をかけられました。この展示の主要アーティスト/画家の池平徹兵さんでした。展示されていた福祉施設の協働作品や顕微鏡絵画のワークショップ、オフィス・バクテリアの作品など、今回のテーマである美術や科学、障害のある/なし、さまざまな「境界線」を越えた「視点」を提示されていて、いわゆる「アール・ブリュット」とは違う質感を持った興味深い活動でした。(科学技術の領域からこの展示を企画された渡部麻衣子特任講師とは、数日後に出会うことになります)。

 そして会場の「オト」がアーティスト「gO」さんの作品であることを池平さんから伺いました。駒場の研究所で集められ、コラージュされた作品ときいて、そのオトが館内の音風景となじんでいた理由が解った気がしました。さらに会話の中で「gO」さんが間もなく同じ街の住人となることがわかり、その偶然性から「是非、連絡を取ってみてください」と告げられました。池平さんが打合せに向かう途中の、ほんの10分程の会話でした。それが「gO」さんの「オト」との出会いです。

Eje

先週まで、天王洲アイルにある寺田倉庫T-Art Galleryでは、「コレクターとアーティスト」シリーズとして(推薦者:笹川直子)、gOさんが参加するアートユニットeje(エヘ)展が開催されていました(2018年現在、ejeは解散)。ejeは2013年度岡本太郎賞特別賞を受賞した美術領域のユニットですが、作品の要素に「オト」があり、その向き合い方がサウンドスケープの思想とも非常に近い感覚。音楽家と美術家のユニットとして、お互いの領域が調和したマージナルな作品づくりをしています。

今回展示されたのは、モノのために作曲された「オト」の作品「ものおと」。ちょうど東京に滞在中で、2007年のCD『生きものの音』(真砂秀朗、ササマユウコ、等々力政彦)のジャケットを制作したHisaeさんと共に出かけました。現在、彼女は一年の半分をインドで暮らし九州を拠点にしていますが、これもまた何かの縁でしょう。

ejeの展示会場は、どこか懐かしさを感じる小さな「部屋」でした。
中央にはアンティークの一人用ソファ型ロッキングチェアが置かれ、周辺の机や床の上には、使い古された鉛筆の束やミシン、壁には蝶の標本や帽子。モノたちは以前からずっとそこに在ったような時間の蓄積を感じる佇まいでした。部屋の訪問者はまず入り口で靴を脱ぎ、イヤフォンを手に取り、住人不在の部屋に足を踏み入れます。茶室に入るような感覚というのでしょうか。その瞬間、私たちはejeの音世界の旅人となるのです。
 この部屋に置かれたモノたちには、ある「仕掛け」がありました。それぞれにひっそりと「ピンジャック」がついている。そこが非日常への入り口となっているのです。手に持ったイヤフォンのプラグをその「非日常」に差し込むと、ひとつひとつのモノの「内側」から、オトが聞こえてきました。ある物語の音の風景になっていたり、歌(ボイス)など、モノと作曲者の関係性によってひとつひとつのコンセプトが違います。しかし統一されたejeの世界感がある。東大博物館で最初に耳にした「余白」の世界でした。モノの中心と自分をつなぐのは(gOさんはそれを‘接着剤’と言う)、イヤフォンのコードの中を伝わるオト。それは駒場博物館の会場を包み込んでいたように私たちの内側を満たしていくのです。しかしそれは、訪問者がピンジャックを「探しあてる」ことがない限り、決して出会うことがありません。そもそも部屋の「境界線」を越えない限りは何も始まらない。日常と非日常、「内」と「外」をつなぐ、その関係性がアートへと昇華するか否かは、実は部屋の訪問者に託されている。リレーショナルな作品です。gOさんは「会場を出た後で、それが数日経ってからでもいいのですが、モノと対峙した時にそこに思わず’ピンジャック(非日常)’を探してしまうような、そんな気づきのある作品になれば」と一週間後にお会いした際に語ってくれました。

 イヤフォンのコードから耳の穴を通って、オトが内側に音が入っていく体験は考えたら非常に生理的です(シェーファーは官能的とさえ言います)。科学的に言えば「脳を刺激する」ということでしょうか。それは何だか即物的ですが、脳だけでなく全身の記憶が呼びさまされるような感覚がありました。個人的には古いミシンが踏まれる音、ボトルシップの波の音に、いつもは忘れているような幼い日の時間の感覚、小学生だった「ある日」の午後の部屋の音風景や光景が鮮やかによみがえる体験をしました。同じ部屋にいたHisaeさんも、幼い頃に交わした友人との「モノ」を通したやりとりを思い出したと話していました。

 gOさんのつくる「余白」は、呼吸のリズムにも寄り添います。緊張しすぎず、緩みすぎない「平和と静寂」にたどりつく。自分の中心点にある「しん」とした場所にオトが染み入り、過去と現在の時間が重なり、ある種の瞑想状態に入るような感覚でしょうか。この部屋ではずいぶんと長い時間を過ごしたように思います。久しぶりに会ったHisaeさんとも、その間ほとんどコトバを交わしませんでした。途中、何人かの「訪問者」が現れましたが、対峙するモノにイヤフォンをさして、思い思いに過ごしていました。この部屋の光景は一見すると「分断された個」の集合体のようにも見えますが、同じ体験をしている訪問者の間には「ゆるやかなつながり」や「共感」が生まれていたと思います。それはすでに「オトを知っている」先人が、後から来た訪問者に対して抱く感情なのだとは思いますが、少なくとも孤独ではありませんでした。対話が始まるのはむしろギャラリーを後にしてからでした。どの「ものおと」が好きだったか、どんな記憶が呼び覚まされたのか話したくなる。個人的な経験を分かち合いたくなるのです。アート・ギャラリーだけでなく図書館や街中など設置場所にもさまざまな可能性を感じる作品でした。
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 そして1週間後、gOさん本人がコネクトのオフィスに遊びに来てくれました。
 作家のサウンドスケープを知っていると、初対面とは思えない不思議があります。本人の内と外にズレがないというか。「技術」や「コンセプト」が前面に出たメディア・アートとは一線を画している作家なのだと思います。この春から(2015年)福祉の領域でもディレクションを始めるgOさんは、福祉の「門外漢」だからこそ先入観に囚われずに柔軟な発想が可能になることでしょう。これは「アールブリュット」や、アーティストが障害者をサポートするような関係性とも違う、さまざまな境界線を自由に行き来する新しい芸術活動のスタイルだと思いました。
 40年前に出版された『世界の調律』(1986 平凡社)の中で、M.シェーファーはサウンドスケープが「社会福祉」へとつながる可能性を、たった一行ですが示唆しています(しかし当時のアカデミックな音楽界には、その考えがほとんど理解されなかった)。若尾裕先生の『音楽療法を考える』(2006 音楽之友社)でも、福祉領域にあるコミュニティ・ミュージック、その「表現の自由」の可能性について言及されています。そしてejeのこころみは、リレーショナル・アート(芸術家と鑑賞者という’立ち位置の区別’がある)を一歩先に進め、社会の中で生きる「人と人」の新しい関係性の探求です。モノと人をつなぐ、人と人をつなぐモノをや場をつくる。対峙する人の「ピンジャック」を探しあて、内側の声を「きこう」とする行為を生む。それは「対話」と言い換えることができるのだと思います。

(2018年追記・加筆。現在、ejeは解散し、gOさんは立石剛さん個人名義で創作活動を開始しています)。

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2015年7月 2日 (木)

弁天様

今年もこの記事を掲載いたします。
これからも毎年、夏が来たらこの記事を
少しづつ加筆・訂正しながら、自分のために掲載したいと思います。
下地にしているのは、
2012年1月に弘前大学今田匡彦研究室で書いた「蓮の音論争」についての論考です。

こちらも 併せてお読み頂けたら幸いです。

(2015年7月1日)

以下、2012年8月(ササマユウコ記)
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Photo_2

1年半ぶりに蓮の花が咲く上野・不忍池、弁天堂に出かけた。

今から80年前、日本が戦争に向かっていた昭和10年の夏の朝、この弁天堂の前で「蓮の開花音」が聞こえるか否かの実験が行われた。そこには「観蓮会」のメンバー牧野富太郎氏や大賀博士を中心とする約50人が集まったが、史料を紐解くと、時代性を差し引いても何とも簡単な実験であった。そしてここでの「実験結果」が発端となり、「有音派」と「無音派」の学者たちが、朝日新聞紙上で「蓮の音論争」を繰り広げたのだ。ちなみに当時の記事の見出しは「結局’無聲版’ パーンともすんとも聴こえぬ」と、どこか「蓮の音をきく」行為そのものを揶揄した論調であった。

昭和10年は226事件が起き、社会が「軍国主義」の空気に包まれていった時代。
蓮の音をきくような「風流」は「陰気」と嫌われた。
「論争」と言ってもそれぞれの主張が記事として紹介されただけで、
翌年、再度簡素な実験が行われ無音派による「科学の勝利」が一方的に宣言されて、
半ば強制的にこの論争には終止符が打たれることとなった。

戦争の足音が、いとも簡単に蓮の花の音を消していく時代の空気は恐ろしい。
蓮の音論争の記事の隣には、
戦前の空気を憂いて一家心中を図った医者の記事が大きく取り上げられ、
すでに論争記事そのものが紙面上での「居心地の悪さ」を感じる。
そして、この国は戦争に突入していった。

戦時中の不忍池は「食糧難」で埋め立てられ、田んぼになっていた。
皮肉にも、田んぼにするための実験結果になってしまった感もある。
ここが再び池になったのは、戦後の復興が進んだ昭和30年代のことだ。

しかし不思議に思うのは、今日も相変わらず、
「蓮の音はしない」と思うことが「科学」だと信じられていることである。
自然にも科学にも「想定外」が存在するということを、
今の私たちは痛いほど知っているというのに。

世界が静寂に包まれ、まだ空気も水も土も汚されず、
花には原始の生命力が宿り、
人が全身を耳にして自然と交感していた太古の時代。

その時代の音の記憶が、たとえ小さな欠片であっても、
人間の耳のどこかに残されていることを信じてみたい。
「蓮の音はしない」のではなく「きこえない」のかもしれない。
もしくは「今は音が出なくなってしまった」のかもしれない。

ちなみに第二次大戦前までは、
科学者も含め、この国の多くの人が「蓮の花の音をきいた」と証言している。
季節の風物詩として、きいたきかないに関わらず、
社会は当たり前に「蓮の音」を受け入れていた。
しかし科学や戦争の名のもとに、
この音が簡単に「無かったこと」にされてしまう歴史があった。

産業革命以降の環境破壊は近代日本も例外ではなく、
蓮をとりまく自然環境は悪化し土壌も汚染された。
(戦前の不忍池周辺も例外ではない)。
加えて、市電の整備やラジオの普及に伴い、街から「静寂」も消えていった。
その音環境は、実験の朝も同様であった。
実験に立ち会った記者は、池の周囲を走る市電の音や消防車の訓練音、
ラジオ体操の音等を耳にしており、
こんなに騒々しい環境で蓮の音がきけるのだろうか、という疑問も投げかけている。
おまけに翌年の実験の朝には「雨」も降っていた。
今も弁天堂に来るとわかるが、
隣接する動物園も鳥の鳴き声等が意外と騒々しいものである。
そしてもちろん、当時も動物園は存在した。
実験当日のサウンドスケープを想像する力を持ちたい。

「蓮の音をきこうとする耳」を、
現代の私たちは無くしてしまったのだろうか。
耳の記憶をしまいこんだまま忘れてしまった、
あるいは戦争によって、無意識に忘れる努力をしただけかもしれない。

論争中は中立派だった大賀博士は敗戦後、
「迷信(幽玄)を信じる日本人」を戒めるように、
かたくななほどに「無音説」を主張されている。
クリスチャンでもあった博士の心情には、
「大戦での勝利を盲信した日本人(自分)への反省」があったからこその発言だったと思うが、「権威ある科学者」の影響力は思いのほか大きかった。
ご自宅で60鉢の蓮を栽培検証し、古代ハスも蘇らせた氏こそ、
本当は誰よりも開花音の存在を望んでいたに違いないのだ。
ただし鉢植えの蓮に、音を出す生命力までが宿ったかは謎である。

ひとことで「蓮」と言っても、実は二千種類も存在するという。
もしかしたら今も世界のどこかで音を出す蓮が、
一種類でも存在しているかもしれない。
それを検証した人は誰もいない。
「蓮の音がする」ということは「科学的」に間違いなのだと、
どうして言い切れるだろうか。
なぜ「万が一」の可能性にまったく目を向けようとしないのだろうか。
科学はそんなに正しいのだろうか。

自然には、私たちの想像力を遥かに越えた力がある。
3.11を経験した今の私たちは、
それを痛いほど知っている。

耳の想像力を、もっともっと自由に広げてみたい。
世界に耳をひらくことから気づくサウンドスケープは、
私たちに多くのことを教えてくれる。

今年は戦後70年。昭和90年である。

(写真:上野不忍の池で筆者撮影)

※この弁天堂周辺は、2011年の原発事故ホットスポットでした。
戦前、蓮の花の音を測定した場所で、皮肉にも放射線量が測定された。
その事実からも決して目を背けるわけにはいきませんし、
蓮の浄化力も信じたいと思います。

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2015年7月 1日 (水)

蓮の花の音をきこう

今年もこの記事を掲載します。
これからもずっと、夏が来たらこの記事を少しづつ加筆・訂正しながら、自分のために掲載したいと思います。
下地にしているのは、2012年1月に弘前大学今田匡彦研究室で書いた「蓮の音論争」についての論考です。M.シェーファーと今田氏の共著で、日本の子供向けサウンド・エデュケーションのテキスト『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(春秋社)には、蓮の開花音を想像する課題が掲載されています。
(2015年7月1日 ササマユウコ記)

まずは、こちら の記事をご覧いただけたら幸いです。

以下は2014年5月記事の再掲載・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現代では蓮の花の開花音は「しない」ということになっています。
戦前、‘ちょっとした’実験が上野の不忍池・弁天堂前で行われ、
当時の科学によって「証明」されたことになっているからです。

戦後は、「神風」という迷信を信じて戦争に邁進した日本人〈自身)を戒めるように、
古代蓮で有名な大賀博士も「無音」であると文章を残されています。
蓮の開花のプロセスや条件を考えれば、それは「正しい」とも言えます。

ただ、蓮は2000種類あると言われています。
そのすべての音が観察されたわけではありません。
実際に実験のあった不忍池周辺も静寂ではなく、
立ち会った朝日新聞の記者は、
こんな騒音の中で音がきこえるのだろうか?
と疑問を寄せています。
実験に使用された音響機材についても、
記録写真を見る限り性能が高いとは言えません。

大賀博士も自宅の鉢で栽培されたのは70種程度だったと記憶しています。

何よりすべての蓮が同じ条件で、同じように開くと言い切れるでしょうか。
しかし私たちは「蓮」という名前ですべてをひとくくりにして、
音はしないという情報を信じ、それ以上は想像することさえやめてしまいます。

今回、このコラムのカテゴラリーに「ソーシャル・アート」を加えたのは、
この「蓮の音はしない。なぜなら科学で証明されているから」という考え方には、
私たちが生きる社会にとっても非常に危うい要素が含まれていると思うからです。

それは「想定外」を認めない、
マイノリティは存在しないという発想に他ならないからです。
せめて「一般的には音はしないと考えられている」くらいに捉えるべきでしょう。
「絶対に音はしない」と言い切る資格は、人間には無いと感じます。

「人間」をひとくくりに「人間」と捉え、潜在能力を語るとどんなことが起きるでしょう。
老若男女も人種も、障害のある/なしも、育った環境や社会も関係なく、
みんな同じ条件で語れるでしょうか。
もちろん「人間は自力で空を飛べない」と言うことは可能だと思います。
ただ、「木に登れる」となると「そうだろうか?」と思う人もいませんか?
「雑食である」と説明されると、ベジタリアンはどうでしょうか。

学術的な「分類」には、社会を単純化やデフォルメする危険を孕んでいます。

生まれた時から「みえない」人は、それが障害だと自覚するのでしょうか。
周囲から「障害」だと言われて、受け入れているだけではないでしょうか。
おしなべて特別支援級より普通学級の現場の方が「騒がしい」のはなぜでしょうか。
私以外の人みんなの耳がきこえなかったら、きこえる私は普通でしょうか。

誰もいない山奥の田んぼで、人知れず音を出した蓮は存在しないのでしょうか。

蓮の音の話題になるたびに、本当は有音/無音どちらでもいいのだと感じます。
むしろ「無音である」という考え方を「常識」とすることに、
どうにも息苦しい気持ちがするのでした。
そして「この世に1本くらいは、もしかしたら音がする蓮があるかもしれない」と、
想像することや、多様性を認めることこそ、芸術教育の役割だと思うのでした。

写真は上野不忍の池(撮影:ササマユウコ)

Photo

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