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2015年7月 1日 (水)

蓮の花の音をきこう

今年もこの記事を掲載します。
これからもずっと、夏が来たらこの記事を少しづつ加筆・訂正しながら、自分のために掲載したいと思います。
下地にしているのは、2012年1月に弘前大学今田匡彦研究室で書いた「蓮の音論争」についての論考です。M.シェーファーと今田氏の共著で、日本の子供向けサウンド・エデュケーションのテキスト『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(春秋社)には、蓮の開花音を想像する課題が掲載されています。
(2015年7月1日 ササマユウコ記)

まずは、こちら の記事をご覧いただけたら幸いです。

以下は2014年5月記事の再掲載・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現代では蓮の花の開花音は「しない」ということになっています。
戦前、‘ちょっとした’実験が上野の不忍池・弁天堂前で行われ、
当時の科学によって「証明」されたことになっているからです。

戦後は、「神風」という迷信を信じて戦争に邁進した日本人〈自身)を戒めるように、
古代蓮で有名な大賀博士も「無音」であると文章を残されています。
蓮の開花のプロセスや条件を考えれば、それは「正しい」とも言えます。

ただ、蓮は2000種類あると言われています。
そのすべての音が観察されたわけではありません。
実際に実験のあった不忍池周辺も静寂ではなく、
立ち会った朝日新聞の記者は、
こんな騒音の中で音がきこえるのだろうか?
と疑問を寄せています。
実験に使用された音響機材についても、
記録写真を見る限り性能が高いとは言えません。

大賀博士も自宅の鉢で栽培されたのは70種程度だったと記憶しています。

何よりすべての蓮が同じ条件で、同じように開くと言い切れるでしょうか。
しかし私たちは「蓮」という名前ですべてをひとくくりにして、
音はしないという情報を信じ、それ以上は想像することさえやめてしまいます。

今回、このコラムのカテゴラリーに「ソーシャル・アート」を加えたのは、
この「蓮の音はしない。なぜなら科学で証明されているから」という考え方には、
私たちが生きる社会にとっても非常に危うい要素が含まれていると思うからです。

それは「想定外」を認めない、
マイノリティは存在しないという発想に他ならないからです。
せめて「一般的には音はしないと考えられている」くらいに捉えるべきでしょう。
「絶対に音はしない」と言い切る資格は、人間には無いと感じます。

「人間」をひとくくりに「人間」と捉え、潜在能力を語るとどんなことが起きるでしょう。
老若男女も人種も、障害のある/なしも、育った環境や社会も関係なく、
みんな同じ条件で語れるでしょうか。
もちろん「人間は自力で空を飛べない」と言うことは可能だと思います。
ただ、「木に登れる」となると「そうだろうか?」と思う人もいませんか?
「雑食である」と説明されると、ベジタリアンはどうでしょうか。

学術的な「分類」には、社会を単純化やデフォルメする危険を孕んでいます。

生まれた時から「みえない」人は、それが障害だと自覚するのでしょうか。
周囲から「障害」だと言われて、受け入れているだけではないでしょうか。
おしなべて特別支援級より普通学級の現場の方が「騒がしい」のはなぜでしょうか。
私以外の人みんなの耳がきこえなかったら、きこえる私は普通でしょうか。

誰もいない山奥の田んぼで、人知れず音を出した蓮は存在しないのでしょうか。

蓮の音の話題になるたびに、本当は有音/無音どちらでもいいのだと感じます。
むしろ「無音である」という考え方を「常識」とすることに、
どうにも息苦しい気持ちがするのでした。
そして「この世に1本くらいは、もしかしたら音がする蓮があるかもしれない」と、
想像することや、多様性を認めることこそ、芸術教育の役割だと思うのでした。

写真は上野不忍の池(撮影:ササマユウコ)

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