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2015年9月24日 (木)

『音楽療法を考える』  若尾裕

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いわゆる「音楽療法」に初めて‘遭遇’したのは1990年頃に都内で開催された音楽イベント内のデモンストレーションだった。まだ国内では「音楽療法」というコトバ自体がめずらしく、障害者/高齢者、どちらを対象にした「場」だったか記憶が曖昧なのだが、主催の関係者で車いすの方も数名参加されていたように思う。空き缶に小豆か何かを入れた手作りのシェーカーが全員に手渡され、それを鳴らしながらインカムマイクを付けた音楽療法士に合わせて、皆で童謡を何曲か歌った。いま記憶にあるのはマイクを通して会場中に響き渡っていた音楽療法士の元気な歌声だけだ。その頃、身を置いていた「オンガクの場」とは大きくかけ離れた‘質感’に、なんとも馴染めず戸惑ったのを覚えている。アプローチの方法も幼児教育の印象と違わず、「何が」音楽療法なのか正直よくわからなかった。その第一印象のせいか「音楽療法」と呼ばれる世界とは、それからしばらく心理的な距離ができてしまったように思う。
まだ黎明期/導入期にあった国内の音楽療法は、おそらく各所でさまざまな「誤解」を生んだまま、音楽関係者を心理的に遠ざけていた時期が長かったのではないか。バブルが陰りを見せたとはいえ、まだ音楽(芸術)が社会から自由になるための手段と考えられていた時代である。社会全体も浮足立ち、音楽には華やかで明るい世界を求めた。「福祉」や「ボランティア」というコトバさえ毛嫌いする人がいたほどだ。音楽療法は専門楽器も少なく、現場の認知度も低く、条件が整わずに経済性の問題もあったことだろう。もちろん専門教育も追いついていなかった。残念ながら「オンガクの場」としては一段‘低く’扱われてきた印象は否めない。

しかし、それから四半世紀近く経った2015年の現在はどうだろう。以前ご紹介した映画『パーソナルソング』を始め、今や「音楽療法」は科学や医療の現場からも注目されている。都市郊外にも音楽療法を目的にした音楽教室やデイサービスをあちこちで見かけるようになった。音楽を媒体に人が集う場が生まれることは良いことだ。しかしここでの「オンガク」は既に芸術ではなく、目的や結果を期待された‘道具’である。‘オンガクは認知症の特効薬である’といった新たな誤解も生まれるだろう。いったい、音楽療法の「オンガク」とは何だろうか。個人的には「根源的な生きる喜び」を、高齢者・障害者・健常者、年齢性別の区別なく、人間が生あるものとして失った何かに音楽を通して気づき、それを取り戻せるような「場」と「時間」であってほしいと思っている。それは本来、専門的な音楽療法士でなくても、音楽家なら誰にでも創りだせるものであれば理想的だ。
筆者は7年ほど前から、病院内のホスピスで年始めのボランティア・コンサートを続けさせて頂いている。コンサートを仕切っているのは、病院に所属する音楽療法士とボランティアの皆さんだ。ボランティアの中には、ご自身の病後の言語リハビリで司会を引き受けて下さった方もいた。ホスピスという繊細で特殊な場での演奏には約束事も多い。「大きな音での演奏は禁止」であり、「あたり障りのない話題以外は口にしない」等。いかに大きな音を出すかに意識が行きがちな演奏家にとっては、コンサートとは正反対とも言える心遣いを知り「音楽療法」の入り口に立つ機会となる。自分の出す音をその場に「調和」させていく。聴く人の体調を考慮して音量や音質、何より場の空気をつくる。
先行している美術界のアール・ブリュットやアウトサイダー・アート、リレーショナル・アートには、音楽には無い魅力を感じると同時に、なぜこれが音楽では叶わないのだろうと考えた時、あらためてクラシック専門教育(特にヴィルトォーゾ養成)のもつ‘特殊性’を憂えずにはいられない。演奏家のポスターが、ご本人の人柄はさておいて一概に「ドヤ顔」であることと無関係ではないだろう。しかし優れた演奏家が優れた音楽療法士とは限らないのもまた真である。音楽教育を「全的教育」と捉えたシェーファーが40年前に記した『世界の調律』で、サウンドスケープが社会福祉につながると示唆している。それは現代のサウンドスケープ研究においても非常に注目すべき点である。

さらにコンサートではなくワークショップとなると、特に福祉の場はよりプリミティブで創造的かつ即興的な時間となる。その‘オンガク’は専門性の外にはあるが、各自の内面から確かに生まれたキラキラとした生命が宿っている。音が技術で手慣れてしまわず、鮮度を保ち続ける奇跡のような世界。筆者はずっとその奇跡を「無修正一発録音&即興」のCD制作に求めていたが、録音現場には想像を越える緊張感が生まれ、演奏家にとっては命を削るような作業になって本末転倒と感じた。しかし身を削る思いで作った作品が、皮肉にも「ヒーリング・ミュージック」という分野の出現により音楽療法士が選曲する衛星放送チャンネルや福祉や医療現場で需要が高いことを知り、「音楽療法」に再び興味を持った頃、2011年3月の東日本大震災、原発事故がおきた。

震災後、私は前述のホスピス以外の場所で、どうにも音が出せなくなってしまった。‘被災者’向けコンサートもいくつかお誘いを頂いたが、ステージ上から一方的に(自分の)ピアノを弾く必要性が見えなくなってお断りをしていた。自分は明らかに演奏家として失格だと悟ったが、とにかくあの時点では音楽よりも靴や服やお金を届けたいと思った。そして音楽を聴いても何も心に響かない時期が1年近く続いた。心の中の「何か」が壊れてしまったようだった。音楽とは何か、何が音楽か。こんなに簡単に社会から「自粛」を要請される音楽の存在とは何か。幼い頃から当たり前に関わってきた音楽(ピアノ)の在り方を根本から考え、捉え直す苦しい時期だった。しかしそれは、もしかしたら、私が内心ずっと抱えてきた「ピアノ」という楽器の「存在感」と自分の性格の間にある‘差異(違和感)’が、パンドラの箱が開いて飛び出しただけかもしれない。その違和感はピアノにではなく、ピアノ専門教育にと言い換えるべきか。なぜなら家ではピアノを演奏したし、この楽器が自分を最も生かせると感じたからだ。

それから4年半、自分なりに考え続け、いま心にあるひとつの答えが「オンガク(芸術)は、内と外の調和と関係性である」ということだ。映画『パーソナルソング』で触れたように、「オンガク」そのものが認知症の患者を癒した訳ではないと考える。自分に音楽(ヘッドフォン)を与えてくれた「他者の存在」が、孤独の淵にいた認知症患者の心をひらき、その心が再び音楽を受け入れたのだと思う。またはヘッドフォンの中で歌う人の声や演奏者の息遣い、そこに付随する思い出が甦り、孤独だと感じていた人生の記憶が他者と共にある状態に上書きされたのだ。「オンガク」それ自体が本当に認知症に効果があるならば、機械的に患者の頭にヘッドフォンをとり付け、PCで打ち込んだ音声信号を聞かせても同様の結果が出るはずである。しかしそうはならないだろう。オリバー・サックスによれば認知症になっても楽器は奏でられるそうだが、だからと言って必ずしも認知症の改善に役立つとは限らない。手前味噌になって恐縮だが、私の作品が音楽療法や医療の場に求められた理由を考えると、あの録音物には一発勝負、全身全霊で演奏している演奏家たちの魂が吹きこまれているからだろう。批評の対象となるような作品としての目新しさは無かったとしても(当時は新しい試みだったのだが)、音の「質感」にはその時にマイクの前で‘生きた’演奏家たちの生命を宿している。

前置きが大変長くなってしまったが、「音楽療法」の本質を考える上で是非、タイトルの本をご紹介したい。

2015著者の若尾裕先生は『世界の調律』の共訳者であり、弘前大学今田匡彦研究室とも縁の深い方である。昨年訪れた奈良・たんぽぽの家にも若尾ゼミ卒業生の姿があった。いわゆる「良い仕事」をされている音楽療法士の皆さんも、必ずこの本を指針としている。音楽療法の「本質」を最も捉えたバイブルと言える。また、『モア・ザン・ミュージック~ミュージック・セラピーからサウンドスケープまで』(1990 勁草書房)では、M.シェーファー(サウンドスケープ論から音楽教育へ)や、クライヴ・ロビンズ(ノードフ=ロビンズ音楽療法の世界)といった、今の潮流につながるキーマンたちへの貴重なインタビューが掲載されている。

いま国内の音楽療法は、高齢化社会を迎え黎明期から「次の時代」に入っている。そして何より震災以降、どうにも音が出せなかった私自身が、ふたたび音を出す喜びを取り戻したのが福祉の場、体奏家・新井英夫さんのワークショップのお手伝いで参加した福祉作業所カプカプの祭だった。予測のつかない即興的な彼らのユニークなアイデアを次々に身体と音にしていく作業は、芸術、すなわち生きるよろこびが溢れた時間だった。そこに生まれるサウンドスケープ(音の風景)が、本当に好きだなと思った。
特にカプカプは不思議な場所で、演劇界の精鋭たち始め、絵本作家や一線の芸術家たちが人知れず集まる。本当の純粋さをもって音楽やアート(アール・ブリュット)が存在する場には強い磁力が生まれるのだろう。「古い団地の喫茶店」は心地よい空気の流れるアトリエであり、そこに集まる誰もが芸術家なのだ。今あらためて、40年前に書かれたシェーファーの示唆が「預言」であったことを実感している。

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