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2015年9月 2日 (水)

『「聴く」ことの力~臨床哲学試論』 鷲田清一

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「聴く」ことは哲学である。そしてまた「聴き方」も哲学だ。この著書は「きく」ことから人の存在の本質、内と外の関係性に迫ろうとする点でM.シェーファーのサウンドスケープ思想とも共通する。ただしシェーファーが東洋的な禅やヨガにある揺るがない(内側)から外側に向かったのに対して、鷲田氏は西洋哲学を軸に、他者の存在(外側)から内側へと向かう。「臨床」というケアの現場にある生の言葉や関係性に、謙虚に耳を澄ますことの大切さを語る。「聴く者が聴きたいように話を曲げてしまう」ことの罪を知っているからだ。そして「哲学とは古代ギリシャの哲学者のことばを借りれば、「よく生きる」ことの知恵であり、科学とは別次元にある」と語る。

2011年3月末、私は原発事故で九州に避難した人の後任として、急遽、自治体の市民大学「福祉学」を担当することになった。サウンドスケープが「福祉」につながることはシェーファー自身も『世界の調律』の中で示唆していたので抵抗はなかったが、正直まだ「福祉」というものがよくわからなかった。

高齢者施設、障害者施設、市内の各福祉施設を使った体験学習を企画・運営する中で、「きく」ということがいかに大切かを実感したのは、「傾聴ボランティア」について学んだ時だった。
平日昼間の市民講座の受講者は概ねリタイアした60代以上が中心で、実に様々な背景をもった方たちの集合体になる。「聴き方」にもそれまでの「生き方」が出る。病院や福祉の現場で長年働いた経験者の「技術」や「癖」。何一つ経験が無くても、ただ謙虚に対象者の目の前に座り、本当にじっと耳を傾けられる人の素直さ。自身が悩みを抱えている人は「聴く」よりも話したがる。中には、震災直後の東北被災地ボランティアに参加し、「結局、何もできなかった」と意気消沈していた人が「傾聴ボランティア」の在り方を知り、「自分が被災地でしてきたことは、これだったのか」と救われる場面もあった。
「臨床哲学」を提唱した鷲田清一氏もまた阪神淡路大震災のボランティアで、自身が「迎え入れられた」経験から「聴く」ことの力に気づいた人だ。そして他者と対峙する時の、曖昧さや「どっちつかず」、つまりはあそびの部分にこそホスピタリティの本質があることを諭す。
「哲学とは科学ではなく、科学の可能性と限界を問うものである」という1999年の言葉には、東日本大震災と原発事故を経験したことすら忘れ去ろうとし、国立大学から文系を排除しようとする今の時代にこそ大きな意味を持つ。

鷲田氏は震災後に私も所属しているアートミーツケア学会の会長も務められている。昨年、神戸での学会ではお目にかかれなかったが、奈良の「たんぽぽの家」が母体となるこの学会の通奏低音には阪神淡路大震災の経験がある。特に神戸の人たちが経験したホスピタリティの域には、関東在住の私たちはまだ到達していないと感じる場面も多々あり勉強になった。

次回は同じく関西在住の、若尾裕著『音楽療法を考える』をご紹介する予定です。

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