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2015年12月29日 (火)

「キクミミ研究会~身体×音の即興的対話を考える」こころみ

1_7_3仕事納め、ではなく既に数年後を見据えた仕事始めです。

横浜にある福祉作業所カプカプにて隔月で実施されている新井英夫さんの身体ワークショップを見学させて頂いたことをきっかけに、水面下であたためていた「キクミミ研究会〜身体×音の即興的対話を考える(仮)」が、いよいよ始動しました。
これは文字通り「身体と音」の関係性、非言語コミュニケーションの可能性を追求する芸術活動です。 野口体操、サウンド・エデュケーション、ヨガ等それぞれの身体性や思想の共通性や違い、 アフォーダンスに迫りながら、ダンス、音楽の「表現活動」を超え、 日常の延長線上にある芸術とは何かを、自らの身体や行為を通して、ノンバーバルな対話から考えていきます。 初日は非常に多岐に渡って、それぞれの背景をコトバで知ることから始め、 後半2時間は鈴や新聞紙を使った実験的な対話を重ねました。

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ここでの時間が作品のみならず、次世代や他分野のアーティスト、福祉や医療現場、哲学や教育など、 さまざまな場につながっていくことも想定しながら、今後の展開をたのしみながら進めていければと思っています。
そして この日は偶然、新井さんから「蓮の花のひらく音をきいた人に会ったことがある」というお話が出て、私がなぜ、2011年以降にサウンド・エデュケーションの研究を始めたのか、 いきなりその核心に迫るお話をさせて頂くことから全てがスタートしました。
カナダの作曲家・M.シェーファーと弘前大/今田匡彦氏の共著で、 日本の子どもたちに向けた音のワークショップの本『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』には100の課題があります。 その63番「花びらがゆっくり開く音」では、まさに上野不忍池の蓮の音について触れ、「花びらがゆっくり開いていく音をきく」すなわち「現実の外に出る」ことが課題となっているのです。
2011年春以降、科学者たちが平然と口にする「想定外」というコトバに、そしてそのコトバを受け入れていく社会に、私は大きな衝撃を受けていました。ヒトの想像力の「限界」はなぜ生まれるのか。想像力の限界を持つ科学者をつくる教育の在り方、何より芸術の役割について本気で考えたいと思いました。
そんな時にシェーファーの『世界の調律』をあらためて読み返し、その思想を知るためのサウンド・エデュケーションに、「耳」から「想定外」を学ぶ方法論を、もっと言えば「希望」を見出しました。そして2011年の秋に、弘前大の研究室の門を叩いたのです。 この「蓮の音」については現在も推敲を重ねながら、自身の研究の原点として毎年少しづつ記事にしています

この5年近くは、内と外をつなぐための「コトバ」の構築に全霊を傾けてきましたが、先日のJan&Angelaとの出会い、そして福祉や教育の現場で、また最近では医療や音楽大学でも数多くの現場を重ねる身体のスペシャリストであり、若尾裕先生とも親交のある新井さんと、この時期にご一緒できたこともまた偶然の必然と考えています。私自身が音を奏で、即興的な対話を通して、自らの「身体とコトバ」をつなぐ時期に入ったのだと感じています。

この研究会で使う「きく」には「聴、聞、訊、問、尋、利、効・・・」などの意味が、そして「みみ」には「耳、未、魅、美、身、味・・」など、さまざまな意味が込められています。目的的ではなく、深く軽やかに、身体と音の対話を重ねながら、その先に何が生まれるのかを当事者たちも楽しみにしながら、丁寧に進んでいきます。そして皆さんともぜひ、「想定外」を分かち合えるような場もつくっていけたらと思っています。

「あそび」を忘れずに、生きるための術として、
そして内と外を柔らかにつなぐ関係性としての「芸術」をめざして。
(写真)新井さんとアシスタントの板坂記代子さん。

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