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2016年3月13日 (日)

内と外を柔らかにつなぐ映画 『LISTEN』を観て。

Listen_4東日本大震災のあと、私はしばらく音を出すことが出来なくなってしまった。失語症ならぬ失音症というのか。きっかけには子供を持つ親として受けとめた原発事故や「自粛ムード」という外側の要因もあったけれど、コトバよりも先に覚えた「音楽(と思っていたこと)」と自分との関係性が、何だかよくわからなくなってしまったという内側の理由が何より大きかった。やがて世間は「絆」を合言葉に、自粛していたはずの歌の大合唱を始めたけれど、心はまるで色を失ったようで苦しかった。いったい私の内側で何が起こっているのか。オンガクを探す旅、いや取り戻す旅は、2011年秋の弘前から始まった。

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それから5年、まるで何かに導かれるように多くの縁や出会いがあって、それは今も続いている。ピアニストは孤高でなければならぬと思っていた自分はもういない。サウンドスケープの弘前大学今田匡彦研究室をはじめ、若手の音楽家やアーティストたちと共に、哲学カフェや芸術活動まで展開している。私はこの5年間ずっと「音を出さないオンガク」を奏で、きいていたのだと今は思う。
ところで、震災前後で自分のオンガクは何か変わっただろうか。実はこのところ、ふたたび音を出す機会が増えているが、物理的な「音波」の印象は何も変わっていない、と本人は感じている。強いて言えば、ピアノ以外の音具も奏でていることだろうか(カリンバ、フレームドラム、バードコール、新聞紙!)。サウンドウォーク(音の散歩/ききあるき)やサウンド・エデュケーション(音のワークショップ)を通して「想定外をきく」ことに「空耳」というコトバを得て、赤ちゃんから高齢者までに場をひらくことが可能となった。16年前に信州国際音楽村に通いながら作ったCDのタイトルも『空ノ耳』だった。自分の内側にあるオンガクの源流は、やっぱり何も変わらない。好きな「間」や「音質」、内と外をつなぐサウンドスケープとは結局、他の誰でもない自分の生命や世界観なのだと旅の終わりに気づいた。まるでメーテルリンクの「青い鳥」みたいに。

「音楽とは何か、何が音楽か」。この答えは人によって違うし、おそらく正解もない。人の数だけ音楽はあるのだろう。西洋音楽(哲学)には基本的にふたつのオンガクが存在するが、それも数ある文化のひとつに過ぎない。例えば、耳から世界を捉え直すサウンドスケープ論を提唱したカナダの作曲家M.シェーファーは、それを「鳴り響く森羅万象(sonic universe)」と呼んだ。耳が外から受けとめる「音波」や「音の連なり」、J.ケージが無響室で気づいた体内を流れる音もまたオンガクと考える。内側と外側が響き合う宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)、調和(ハルモニア)。その哲学的な世界感や概念を「きく」ことをアポロン的音楽という。一方、内なる感情や情動を表現する音楽はデュオニソス的音楽と呼ばれ、双方は過去の哲学者たちによって対立構造に置かれてきた。しかし「内なる音楽」と「外なる音楽」は本当に対立しているだろうか?と思う。
例えば、先日試写に伺った耳のきこえない聾者のオンガクを描いたドキュメンタリー映画『LISTEN』について。この作品を「視た」人は「音楽とは何か」を哲学者のように考えるきっかけを得るだろう。なぜなら「内なる音楽」と「外なる音楽」が調和しながら、そのどちらでもないオンガクが描かれていると感じるからだ。「共同監督」というスタイルで、ふたつの視点が描かれている点も興味深い。

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監督のひとり、聾の舞踏家・雫境さんは子ども時代にみた嵐の空に浮かぶ雲の流れにオンガクを感じたという。「この映画は未完成です。いろいろなことを考えてもらえるきっかけになれば」と上映後に手話で語ってくれた。彼との出会いは、一昨年の文化庁メディア芸術祭で開催された視覚/聴覚の障害を越えた鑑賞ワークショップに参加した時だった。私がふり返りで話したサウンドスケープについて、帰り際に「興味があります」と声をかけて下さったのだった。彼が波のリズムを「きいて」砂浜で踊るシーンはとても美しい。波そのものを表現するのではなく、波音のきこえる音風景の肌理を身体で描く。もうひとりの監督・牧原依里さんは、「手話詩」という聾者の内側から生まれるオンガクを真正面から受け止め、きめ細やかに記録する。この二人の監督の内と外がつながり、『LISTEN』のオンガクに多様性を生んでいる。ゆれる木々の葉、寄せては返す光る波、花が咲き散る、風になびく長い髪、私と私、私とあなた、そして仲間たちとの共感/共鳴・・・ひとつひとつのシーンの連なりも58分間の美しい音楽だ。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない』と、R.カーソンは『センス・オブ・ワンダー』の中で語る。この作品もまさに「きこえない世界」を「知る」のではなく「感じる(きく)」映画なのだと思う。

鑑賞の方法もユニークだ。全編が「無音」というある意味で実験的なこころみは、実は聾者の世界そのものである。聴者は彼/彼女たちの世界にもっと近づくために、耳栓で周辺音をシャットアウトする。きこえる/きこえないの「境界線」を聴者から越えるのだ。けれどもその体験は、アイマスクや暗闇を使った視覚障害者体験とは違う感覚となる。なぜなら、まったく音のない映像の中からも不思議とオンガクが「きこえる」からだ。私が音楽家だからだろうか?しかしそこに「きこえる」オンガクは「旋律・リズム・ハーモニー」といった三要素に凝縮された西洋音楽の典型ではない。では聾者たちの身体で表現されているものは何だろう。なぜ私はこの映像からオンガクを感じるのだろうか。私の「視る」は、やがて「きく」になり、いつしか「感じる」に変わっていく。視覚と聴覚がひとつになって身体の内と外がつながり共鳴する。もしかしたらオンガクを奏でている聾者たちもまた、私と同じプロセスを辿っているのではないだろうか?と思う。手話詩(感情や自然のミメーシス)、サウンドスケープ(音風景)、内なる鼓動や喜怒哀楽・・・それは魂の輝きであり、生命そのものであり、きこえる/きこえないは問題ではないとわかってくる。『LISTEN』が描いているのはやはり「ウチとソトの関係性」なのだと思う。「奏でる人」が自身や世界とどう関わっているか。それを「きく(感じる)」作品なのだ。

花のつぼみがふくらみ、月が満ち欠け、四季が移り変わり、人と人が出会う。それは自然の、そして宇宙のリズムである。身体もまた自然であり、宇宙とつながる。呼吸は波のリズム、鼓動は時間をつくりだし、潮の満ち引きは体内を揺らす。音のないオンガクは確かに存在する。声質のように手話にも「手質」があるという。その人の雰囲気、存在感、そこに立ち現れる肌理もまたオンガクだ。だからこそ世界の内と外に耳をひらき、オンガクとして生き生きと感じてみよう。さあ、LISTEN!「きく」ことは生きることそのものである。聾者たちが教えてくれるのは他ならない「全身を耳にして、世界に耳をひらく」ことの大切さだ。5年間の旅の終わりに、この映画に出会えたことはどこか象徴的だ。私自身も深い喜びを感じているし、ここからがまた新しい旅の始まりなのだと思う。

『LISTEN』は5月14日から全国上映
 公式サイト http://www.uplink.co.jp/listen/

(C)2016 Photo by Yuko Sasama

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