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2016年5月の4件の投稿

2016年5月23日 (月)

聾者の音楽映画『LISTEN』 アフタートークに出演しました。

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□連日満席が続いている映画『LISTEN』。出演させて頂いた21日(土)夜のアフター・トーク「ウチとソトから’きく’音楽」の様子を、一部抜粋ですがこちら丁寧にまとめて下さっています。話したことが瞬時に文字化&公開されるのは口述筆記のような独特な緊張感もありましたし、もっと話すべきことがあったはずと後悔も残りますが、この作品を使った「哲学カフェ」やりたいなあ・・と思いながら、「音楽とは何か、何が音楽か」について、さまざまな内側と外側から牧原さん&雫境さん両監督とともに考えてみました。たぶんあと3時間くらいは話せたと思います(笑)。先週末は夕方の回に急遽追加上映をしていましたが、それでも夜の回もあと2、3席・・。お立ち見もいらしたので、予告を未見の方も含め今後の詳細はアップリンクのHP でご確認ください。

□この日は、久しぶりに脚本家の米内山陽子さんや、演劇家の柏木陽さんともお会いして、イベント後も米内山さんの通訳を介して監督お二人と共に映画&演劇&音楽談義に花が咲きました。基本的には「きこえる/きこえない」を越えての表現者同志の対話でしたが、同時に「手話」という身体的なコミュニケーションがやはり興味深かった。'楽器演奏時’の身体の使い方、特に指先の動きを含めた「手の仕事」に非常に近いと感じました。実際に手話にも「手質」や得手・不得手があると言います。そして、今回この映画の中で私が「何に」もっとも’音楽’を感じたかと考えた時、(私は手話がわからないので)純粋に彼らの指先や身体が醸し出す雰囲気であったり、動きの「間」であったり、「音のある/なし」を越えたセンス(感覚)や、そこに’きこえる’サウンドスケープ(音風景)だったと思います。反対に手話のわかる人や聾者は、動きに「意味」を見出そうと観てしまうと話していたので、この映画はやはり「きこえない世界」の内側から、「きこえる世界」につながろうと試みた作品なのだと思いました。

□『LISTEN』の面白いところは、被写体ひとりひとりが’奏でる音’を、「無音の58分間」という音楽的な「時間の流れ」として、おそらく’作曲’のような思考と直感で編集して、ひとつのサウンドスケープ(音風景)としてデザインしている点にもあります。人の数だけ音楽があり、各被写体の音楽もいわゆる三要素(旋律、リズム、ハーモニー)で語られるものだったり、内と外の関係性そのものを表現していたり手法は様々です。それをもう一度、監督が音風景として紡ぎ直している。もっと言えば「ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)」のハルモニア(調和)の世界を目指した「沈黙をきく」作業です。だから観客にも「きく」ための想像力が求められる。それは先日観た能舞台でも体験した感覚でした。「きく」とは鳴り響く森羅万象(宇宙)に耳をひらき、全身を耳にする行為です。鑑賞者は彼らの音楽を受け入れ、時には自分から求めに行く。受動的聴取と能動的聴取を繰り返しながら映画を「きく」のです。感覚器官に「目」を使っていたとしてもです。

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□余談として舞台裏のお話から、国際映画祭が「聴者による聴者のためのもの」だということも含め、まだまだ聾者がコネクトできない領域があることも見えてきました。実は社会に出て最初に就いた仕事が洋画仕入だったので、もともと映画を観てきた方だとは思いますが、確かにこの『LISTEN』はアート系でもドキュメンタリーでもない。つまりは「聴者の価値観」や「ジャンル」で撮られていない新しい作品だということも非常に注目しています。それは耳栓を渡される鑑賞方法もしかりです。
しかし、この作品が映画界の内側に入るほど「かくあるべき」という壁にぶつかり、評価が厳しくなるという。反対に映画の外の人ほど面白がってくれる、というお話も社会の在り方を象徴しているようで印象に残りました。特にこれは、商業のシステムと結びつき発展した比較的歴史の浅い「映画」というジャンルが、本当の意味で皆にひらかれた「芸術」となるための課題のひとつと言えるだろうと思いました。なぜなら、この作品を「観たい」と連日多くのきこえる/きこえない人たちが映画館に足を運び、満席が続いているという現状があるからです。

□それでも、この映画にどうしても「聴者のジャンル」が必要と言うならば、やはり「音楽」と言いたいと思います。私が「ダンスではない」と感じる理由はまた別の機会に考えてみたいと思いますが、これは音楽家の直感です。映像の’質感’から「アート系」とも違うと思いました。58分間の無音の音楽。即興性や偶然性、荒さときめ細やかさを内包している「現代音楽」ならぬ「未来音楽」と言えるでしょうか。それは身体を動かさずに脳波だけで音楽を奏でる人工知能音楽の映像を観た時の感覚に近いというか(人工的という訳ではなく、’新しさ’という意味において)。とにかく聴者の音楽の「当たり前」が揺さぶられ、観終わった後も「きこえるとは?」「音楽とは?」と考え、他者との対話を生むだろうと思います。何より「きこえる/きこえない」という両者の世界をつなげたくなる。聴者は耳栓で塞いだ自分の身体の内側の音、つまり「生命の音」に気づき、それは聾者にも同様にある音楽だとあらためて知る。彼らの音風景(世界)に気づくこと。まさにそれは「きく」ことから世界との「つながり方」を見直そうとしたM.シェーファーのサウンドスケープ哲学そのものだと思うのでした。

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2016年5月16日 (月)

アーツ千代田3331「音を奏でる身体~動く音響」 記録映像です。

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昨年12月にアーツ千代田3331レジデンスアーティストJan&Angela(スイス)のプロジェクトに参加した際の映像記録が出来上がりました。

音を奏でる身体~動く音響」と題したこのプロジェクトは、彼らが世界各国を旅して出会ったアーティストと身体×音の「即興的対話」から生み出されていく旅の記録でもあります。

ですから映像の中でも、いわゆる「パフォーマンス作品」ではなく完全に即興の非言語コミュニケーション(コトバ以外の音と身体を使った対話)が行われています。出演者5名の間には「10分×3本」と役割(私は音)が与えられているだけです。ステージの内側の世界では、かなりの情報量や「気」が飛び交ているのですが、外側からはこのように見えていたという記録でもあります。定点観測なので、外側からは見えていない部分で起きていたこと、内側には届いていなかった周辺環境音が入り込んでいることなど様々な発見があります。「作品」として受けとめることも可能です。また私とJan(音楽家たち)の身体が、3名のダンサーの身体とは明らかに違うことも興味深い。音楽家とダンサーの音の扱い方も微妙に違うのも興味深いと思います。
何より初対面のメンバーが、出会ってから1週間後に、分野や国境も越えて即興的な非言語コミュニケーションが可能になることも、芸術の力だと思います。私にとっては2011年から久しぶりのステージが「ピアノではない」というレアな状況ですが、その展開も含めて「身体と音の即興的対話」について、もっと自由に内と外をつないでいきたいと思いました。

■詳細はJanのホームページ をご覧ください。

photo(C)Steven Seidenberg and local press photographer

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2016年5月11日 (水)

映画『LISTEN』14日から公開 (アフタートークに出演します)。

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以前こちらのブログでもご紹介した、音のない音楽映画『LISTEN』。いよいよ今週末14日(土)から渋谷UPLINKを皮切りに公開されます。
初日からの2週間は連日、聾者監督ふたりと各分野のゲストによるアフタートークが予定されています。僭越ながら21日(土)夜の回には、私(ササマユウコ)も「ウチとソトから’きく’音楽」をテーマに出演させて頂くことになりました。

先月の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?」のテーマともつながり、監督おふたり(牧原依里さん、雫境(DAKEI)さん)と対話の機会が持てることはとても楽しみです。
「音楽とは何か」を内側、外側から考えてみたい方、音のない音楽を体験してみたい方、ぜひ足をお運びください! 上映は19時からです。
映画は■詳細はこちらから→

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2016年5月10日 (火)

「Mother songs vol.8」を終えて

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大概的なピアノ演奏を止めた2011年以降も、実はこのホスピスのMother songsコンサートだけは続けている。今日は8年目。自分の演奏が本当に必要とされている気がするのは、コンサートを支えて下さるスタッフ皆さんのお力添えが大きい。本当は「断れずに」続いているというか、結局私も皆さんと同じなのだ。自分の出来ることで、あの場所に参加させて頂いてる。
一期一会であっても「死」も「音楽」もいつもの日常の続きにある。だから特別なことはしない。世間話や作品背景をお伝えしたり、歌ったり、子供たちの未来を願ったり。今思えば第1回目の緊張感は失礼だった。完璧に演奏しなければと力が入っていた。もっと和やかに、普通に語りかければよかった。次回はもっとユーモアを入れたい。
8年目にしてやっと今日、少しわかった気がする。小さな音楽の持つ時代性や力を。過去にここで出会った人は誰一人この世にはいないのだということも。今日出会った人たちもいずれいなくなる。それは何というか誤解を恐れずに言えば清々しいような気持ちがした。笑顔を見せてもらえたからかもしれない。
考えるところあって、今日は10年ぶりにバッハやドビュッシー、クラシックも解禁した。私にしては珍しくクラシックは楽譜通りに演奏した。ふと、10年以上前に亡くなった祖母の顔が浮かんだ。来週命日のママ友のことも思い出した。
明日は母の日だ。

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