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2018年8月 5日 (日)

蓮の花のひらく音2018

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◎昨年の記事はササマユウコ個人サイトの「Inside/Outside」をご覧ください。

 今年も不忍池の蓮に会いに行きました。毎年この時期に、軍国主義が色濃くなった1930年代の国内有音派・無音派の植物学者たちが、2度の夏に渡って不忍の弁天堂前の蓮音を巡って朝日新聞紙上で繰り広げた『蓮の音論争』をご紹介しています。詳細は、ぜひ上記リンクよりご覧いただければ幸いです。
今回は「芸術と科学」の関係性について素人なりに少し考えてみたいと思いました。なぜなら、この「蓮の音論争」を一方的に収束させた無音派の言葉が「科学の勝利」だったからです。
 20世紀は「科学の時代」と言われました。この100年間に開発された科学技術は、インターネットの例を挙げるまでもなく人々の暮らし、世界を大きく変えました。この「蓮の音論争」が繰り広げてられていた1930年代の日本も近代化が進み、すでに不忍池周辺工場の排気による環境汚染が問題視されていました。関東大震災を経て地下鉄銀座線も開通しています。
 実は、第二次世界大戦前のアメリカではすでに原子力爆弾の製造法が研究開発されていましたし、それを知る留学経験者(物理学者たち)も国内に存在していました。その原子力爆弾を自国に投下する可能性のある国と戦争状態に突入していく時代をどう過ごしたのか、今では彼等の「内心」を知ることは出来ません。物理学者だけでなく、「戦争反対」を唱えた人たちは、時には隣人の「密告」により捕まり、拷問を受け、殺されてしまう恐ろしい国。大正デモクラシーから10年たらずで社会は暗く変貌し、ジェットコースターのように軍国主義に「落ちていく」体験をした人たちは沢山いたはずでした。もしくは「上がっていく」と高揚感をもって捉えていた人たちも沢山いたことでしょう。
 この論争までは有音派の植物学者も普通に存在していましたし、「蓮の音をきく」文化も当たり前に受け入れられていました。しかし「科学の勝利」と新聞に書かれた途端、実は突っ込みどころ満載の「非科学的な」実験だったにもかかわらず、蓮の音の存在は呆気ないほど簡単に社会から消えてしまうのです。その年の冬は226事件、クーデターを起こした多くの青年将校たちが処刑された象徴的な年でした。
 敵国アメリカの真実を知る/知らないにかかわらず、国中の人たちが「本心」を隠し大きな力に飲み込まれ、「勝利」を信じて「お国のために」すべてを差し出す道だけが残されていきました。「蓮の音」を愛でるような「風流」は軍国主義に嫌われ、戦争を視野に入れたメディアや教育による「刷り込み」が子どもにまで及んでいきます。「蓮の音論争」の隣には、すでに都内で始まっていた空襲訓練を苦に一家心中した有識者家族の記事も大きく掲載されています。
 しかし、戦後は違う理由で「科学的根拠」をもって「蓮の音」をふたたび否定する人物が現れます。誰よりも蓮を愛し、自宅で検証を積み重ねた植物学者の大賀博士です。大賀博士はなぜ「蓮の音はしない」と言い切ったのか。それは「カミカゼ」を信じて戦争に邁進した迷信を疑わない「国民性」への反省と批判があったからです。
 この「蓮の権威」が科学の世界から「無音」を宣言した影響は大きく、現在も大賀博士の論が一般的に支持されています。戦後の高度経済成長を遂げた日本人は、日進月歩の科学技術の恩恵を受けながら、ふたたび蓮の音をきく耳を持とうとはしませんでした。気づけばアカデミズムだけでなく、芸術さえも「科学的であること」が求められるようになります。ロジカルに説明できないモノ・コト・ヒトは排除する。「非科学的」であることと「言葉にできないこと」が同義として語られていくようになりました。逆に言えば「言葉にできること」だけが世界のすべてになっていきます。
 そして2011年3月。衝撃的だった「想定外」の言葉とともに、人類史上最悪の原発事故が起きました。その事故の背景には「ブレーキのない自動車を走らせる」ような杜撰な「最先端科学技術」の実態も見えました。そして事故からわずか7年。社会はいま「勝利(成功)」を信じて真夏の東京オリンピックに突き進もうとしています。その成功を信じる「科学的根拠」は何でしょうか。
 芸術と科学は本来、岡本太郎が提唱した「調和は衝突」の関係性にあるのだと思います。「想定外」とは「イメージの力」によって到達する世界であり、それは芸術にとって必要不可欠です。科学がカバーできない「非言語」の領域を芸術で補うこともできます。科学は決して芸術に勝る存在ではありません。むしろ科学の言葉やデータに囚われてしまうことは芸術を窒息させ、社会を息苦しくすることさえあります。なぜなら「科学的根拠」も決して「正解」ではないと未曾有の大災害が教えてくれたからです。「蓮の音を聞いた」と言う人を「非科学的である」と言葉で封じ込めるような権利は誰にもない。この広い世界には2000種類以上の蓮が存在し、土壌や環境、蓮の生命力の個体差も含め、すべてを検証することは不可能だからです(大賀博士も70種類ほどでした)。科学の「想定外」に思いを馳せることは「非科学的」とは違います。イメージすることを止めてはなりません。
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 明日は8月6日。原爆ドームの前に初めて立った時の「想い」を言葉にすることは本当に難しいです。わずか30センチ定規1本で開発されたという小さな「原子力爆弾」。はたしてそれは「科学の勝利」だったのでしょうか。ただ悲惨な、悲惨以外には言葉が見当らず、黒い塊の前で茫然となる思いでした。

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