2016年6月19日 (日)

映画『FAKE』を観て

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聾者(まったくきこえない耳を持つ人たち)の音楽を描いた『LISTEN』と同時期の公開となった、こちらも話題作『FAKE』を観ました。実は、一連の’事件’については記者会見も含めいちども報道を観たことが無かったので、純粋に「音楽とは」「きくとは」を問う作品として向き合いました。

作品は人間ドキュメンタリーとしても非常に興味深く、被写体であるS氏(夫妻)を通して見えてくる「メディア社会」の歪みを実感する内容だったと思います。さらに、篠原有司男夫妻の『キューティ&ボクサー』やアート収集家夫妻『ハーブ&ドロシー』のような、芸術をめぐる風変りな夫婦のドキュメンタリーとしても楽しめる(そう、意外にも’楽しめる’要素が各所にある)。ただしそこには「FAKE」というキーワードが通奏低音として流れているわけです。

一方で「音楽」や「きく」に焦点を当てて観ると、とても一言ではまとまらないモヤモヤが残ります。なぜならそこには「正解」が無いからです。ゴーストライターN氏の存在も視点を変えれば「スタッフ」と言えなくもない。仲間のアイデアを「編集」して自分の作品として世に出す「作家」は'聴者の世界'には普通に存在しますし、これが彼の「作曲スタイル」だと言えてしまえないこともない。そもそも、そこに「白黒」をつけるスタンスでは撮られていないのですから「答え」は観る側に委ねられているとも言える。

ただひとつだけ「確か」なのは、難聴者であるS氏が「聾者」だと自分や社会を偽ったことです。これは明らかに「罪」である。しかし彼に「聾」という物語を求めたのも、もしかしたら世間なのかもしれないというモヤモヤも相変わらず残る。この映画の後にNHKのドキュメンタリーを観ましたが、そこには明らかに「聾者の絶対音感」という作り手の’期待’があり、それに応えようとしている彼の姿も映しだされている。ただし、ドキュメンタリーに登場した彼を慕う若者たちの存在については映画では一切触れられておらず、実はS氏が誰よりも謝罪しなければならなかった相手はあの彼女たちだったのではと思うのですが、実際の関係性も含めそこは闇の中です。

本来ならば、芸術は障害の前にあっても平等に評価されるものです。なぜなら障害の有無に関わらず、いちど出してしまった「音」はどうにも嘘がつけないからです。そこに付加価値としての「物語」を欲してしまう。これは「受け手側」の問題でもあるのです。そうした「芸術の不平等性、残酷性、そして純粋性」にも触れながら、その魔力に囚われてしまった人間たちの悲喜劇を描いているとも言えます。何より「絶対音感」や「五線譜」という西洋音楽の価値観、音楽的「才能」をどう捉えるかによって「彼らの住む世界」の観え方も大きく変わってくる(これ以上言うとネタバレになるのでやめます)。
結局、森監督がこの作品で提示したのは「環世界」なのだと思います。実際に関連記事を探してみると、監督は「ユクスキュルに影響を受けている」という一節に出会いました。まさに「耳」から捉えた世界は千差万別だということです。他者の耳を共有するには「想像力」が欠かせない。そもそも「きこえる/きこえない」の境界線を乗り越えようとせずに、「きこえる」世界の’常識’だけでこの騒動を判断してよいのかという、受け手側への問いかけでもあると思いました。

一方、この映画を「社会派」として観るならば、受け手の「メディア・リテラシー」に対しても一石を投じたのだと思いました。ある’事件’が起きたときに、主人公を記者会見に引っ張り出し「嘘つき」と糾弾することは簡単です。しかし、S氏が世に出るきっかけとなったドキュメンタリーの作り方には音楽的な「つっこみどころ」も多々ある。そこを検証せずに「鵜呑み」にした受け手には、もちろん作り手には何も問題はなかったかと。音楽家に限らず、科学者、政治家、アイドル、企業人トップ、今や一般人までが、日々テレビの中で「謝罪」を繰り返している社会こそが「FAKE」ではないのか。そんな監督の声がきこえてくる気がしました。

どちらにしても「FAKE」は、本当の聾者(という言い方は失礼ではないか・・)の映画『LISTEN』と併せて、ぜひ観て頂きたい作品だと思いました。何が本物で、何が嘘か。音楽とは何か、何が音楽か。その問いと存分に向き合える、実に対照的な二本の「きく」映画でした。
(ササマユウコ記)

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2016年6月14日 (火)

ササマユウコ/Yuko Sasamaホームページ移転中です。

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□6月いっぱいで旧サイトのサービスが終了するということで、急遽ササマユウコのホームページの移転作業に入っています。ちょうど「ふり返り」の時期なのかなと思っていますが、予定外だったのであたふた・・。

2011年の東日本大震災以降、水面下で「音を出さない音楽」と向き合ってきたササマの「イマココ」がわかるサイトになると思います。
まだ表紙しかできていませんが、2011年以前の活動アーカイブも含め徐々に移行していきますので、時どきのぞいてみてくださいね。

□新サイトhttp://yukosasama.jimdo.com/ 

 

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2016年5月23日 (月)

聾者の音楽映画『LISTEN』 アフタートークに出演しました。

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□連日満席が続いている映画『LISTEN』。出演させて頂いた21日(土)夜のアフター・トーク「ウチとソトから’きく’音楽」の様子を、一部抜粋ですがこちら丁寧にまとめて下さっています。話したことが瞬時に文字化&公開されるのは口述筆記のような独特な緊張感もありましたし、もっと話すべきことがあったはずと後悔も残りますが、この作品を使った「哲学カフェ」やりたいなあ・・と思いながら、「音楽とは何か、何が音楽か」について、さまざまな内側と外側から牧原さん&雫境さん両監督とともに考えてみました。たぶんあと3時間くらいは話せたと思います(笑)。先週末は夕方の回に急遽追加上映をしていましたが、それでも夜の回もあと2、3席・・。お立ち見もいらしたので、予告を未見の方も含め今後の詳細はアップリンクのHP でご確認ください。

□この日は、久しぶりに脚本家の米内山陽子さんや、演劇家の柏木陽さんともお会いして、イベント後も米内山さんの通訳を介して監督お二人と共に映画&演劇&音楽談義に花が咲きました。基本的には「きこえる/きこえない」を越えての表現者同志の対話でしたが、同時に「手話」という身体的なコミュニケーションがやはり興味深かった。'楽器演奏時’の身体の使い方、特に指先の動きを含めた「手の仕事」に非常に近いと感じました。実際に手話にも「手質」や得手・不得手があると言います。そして、今回この映画の中で私が「何に」もっとも’音楽’を感じたかと考えた時、(私は手話がわからないので)純粋に彼らの指先や身体が醸し出す雰囲気であったり、動きの「間」であったり、「音のある/なし」を越えたセンス(感覚)や、そこに’きこえる’サウンドスケープ(音風景)だったと思います。反対に手話のわかる人や聾者は、動きに「意味」を見出そうと観てしまうと話していたので、この映画はやはり「きこえない世界」の内側から、「きこえる世界」につながろうと試みた作品なのだと思いました。

□『LISTEN』の面白いところは、被写体ひとりひとりが’奏でる音’を、「無音の58分間」という音楽的な「時間の流れ」として、おそらく’作曲’のような思考と直感で編集して、ひとつのサウンドスケープ(音風景)としてデザインしている点にもあります。人の数だけ音楽があり、各被写体の音楽もいわゆる三要素(旋律、リズム、ハーモニー)で語られるものだったり、内と外の関係性そのものを表現していたり手法は様々です。それをもう一度、監督が音風景として紡ぎ直している。もっと言えば「ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)」のハルモニア(調和)の世界を目指した「沈黙をきく」作業です。だから観客にも「きく」ための想像力が求められる。それは先日観た能舞台でも体験した感覚でした。「きく」とは鳴り響く森羅万象(宇宙)に耳をひらき、全身を耳にする行為です。鑑賞者は彼らの音楽を受け入れ、時には自分から求めに行く。受動的聴取と能動的聴取を繰り返しながら映画を「きく」のです。感覚器官に「目」を使っていたとしてもです。

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□余談として舞台裏のお話から、国際映画祭が「聴者による聴者のためのもの」だということも含め、まだまだ聾者がコネクトできない領域があることも見えてきました。実は社会に出て最初に就いた仕事が洋画仕入だったので、もともと映画を観てきた方だとは思いますが、確かにこの『LISTEN』はアート系でもドキュメンタリーでもない。つまりは「聴者の価値観」や「ジャンル」で撮られていない新しい作品だということも非常に注目しています。それは耳栓を渡される鑑賞方法もしかりです。
しかし、この作品が映画界の内側に入るほど「かくあるべき」という壁にぶつかり、評価が厳しくなるという。反対に映画の外の人ほど面白がってくれる、というお話も社会の在り方を象徴しているようで印象に残りました。特にこれは、商業のシステムと結びつき発展した比較的歴史の浅い「映画」というジャンルが、本当の意味で皆にひらかれた「芸術」となるための課題のひとつと言えるだろうと思いました。なぜなら、この作品を「観たい」と連日多くのきこえる/きこえない人たちが映画館に足を運び、満席が続いているという現状があるからです。

□それでも、この映画にどうしても「聴者のジャンル」が必要と言うならば、やはり「音楽」と言いたいと思います。私が「ダンスではない」と感じる理由はまた別の機会に考えてみたいと思いますが、これは音楽家の直感です。映像の’質感’から「アート系」とも違うと思いました。58分間の無音の音楽。即興性や偶然性、荒さときめ細やかさを内包している「現代音楽」ならぬ「未来音楽」と言えるでしょうか。それは身体を動かさずに脳波だけで音楽を奏でる人工知能音楽の映像を観た時の感覚に近いというか(人工的という訳ではなく、’新しさ’という意味において)。とにかく聴者の音楽の「当たり前」が揺さぶられ、観終わった後も「きこえるとは?」「音楽とは?」と考え、他者との対話を生むだろうと思います。何より「きこえる/きこえない」という両者の世界をつなげたくなる。聴者は耳栓で塞いだ自分の身体の内側の音、つまり「生命の音」に気づき、それは聾者にも同様にある音楽だとあらためて知る。彼らの音風景(世界)に気づくこと。まさにそれは「きく」ことから世界との「つながり方」を見直そうとしたM.シェーファーのサウンドスケープ哲学そのものだと思うのでした。

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2016年5月11日 (水)

映画『LISTEN』14日から公開 (アフタートークに出演します)。

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以前こちらのブログでもご紹介した、音のない音楽映画『LISTEN』。いよいよ今週末14日(土)から渋谷UPLINKを皮切りに公開されます。
初日からの2週間は連日、聾者監督ふたりと各分野のゲストによるアフタートークが予定されています。僭越ながら21日(土)夜の回には、私(ササマユウコ)も「ウチとソトから’きく’音楽」をテーマに出演させて頂くことになりました。

先月の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?」のテーマともつながり、監督おふたり(牧原依里さん、雫境(DAKEI)さん)と対話の機会が持てることはとても楽しみです。
「音楽とは何か」を内側、外側から考えてみたい方、音のない音楽を体験してみたい方、ぜひ足をお運びください! 上映は19時からです。
映画は■詳細はこちらから→

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2016年3月13日 (日)

内と外を柔らかにつなぐ映画 『LISTEN』を観て。

Listen_4東日本大震災のあと、私はしばらく音を出すことが出来なくなってしまった。失語症ならぬ失音症というのか。きっかけには子供を持つ親として受けとめた原発事故や「自粛ムード」という外側の要因もあったけれど、コトバよりも先に覚えた「音楽(と思っていたこと)」と自分との関係性が、何だかよくわからなくなってしまったという内側の理由が何より大きかった。やがて世間は「絆」を合言葉に、自粛していたはずの歌の大合唱を始めたけれど、心はまるで色を失ったようで苦しかった。いったい私の内側で何が起こっているのか。オンガクを探す旅、いや取り戻す旅は、2011年秋の弘前から始まった。

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それから5年、まるで何かに導かれるように多くの縁や出会いがあって、それは今も続いている。ピアニストは孤高でなければならぬと思っていた自分はもういない。サウンドスケープの弘前大学今田匡彦研究室をはじめ、若手の音楽家やアーティストたちと共に、哲学カフェや芸術活動まで展開している。私はこの5年間ずっと「音を出さないオンガク」を奏で、きいていたのだと今は思う。
ところで、震災前後で自分のオンガクは何か変わっただろうか。実はこのところ、ふたたび音を出す機会が増えているが、物理的な「音波」の印象は何も変わっていない、と本人は感じている。強いて言えば、ピアノ以外の音具も奏でていることだろうか(カリンバ、フレームドラム、バードコール、新聞紙!)。サウンドウォーク(音の散歩/ききあるき)やサウンド・エデュケーション(音のワークショップ)を通して「想定外をきく」ことに「空耳」というコトバを得て、赤ちゃんから高齢者までに場をひらくことが可能となった。16年前に信州国際音楽村に通いながら作ったCDのタイトルも『空ノ耳』だった。自分の内側にあるオンガクの源流は、やっぱり何も変わらない。好きな「間」や「音質」、内と外をつなぐサウンドスケープとは結局、他の誰でもない自分の生命や世界観なのだと旅の終わりに気づいた。まるでメーテルリンクの「青い鳥」みたいに。

「音楽とは何か、何が音楽か」。この答えは人によって違うし、おそらく正解もない。人の数だけ音楽はあるのだろう。西洋音楽(哲学)には基本的にふたつのオンガクが存在するが、それも数ある文化のひとつに過ぎない。例えば、耳から世界を捉え直すサウンドスケープ論を提唱したカナダの作曲家M.シェーファーは、それを「鳴り響く森羅万象(sonic universe)」と呼んだ。耳が外から受けとめる「音波」や「音の連なり」、J.ケージが無響室で気づいた体内を流れる音もまたオンガクと考える。内側と外側が響き合う宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)、調和(ハルモニア)。その哲学的な世界感や概念を「きく」ことをアポロン的音楽という。一方、内なる感情や情動を表現する音楽はデュオニソス的音楽と呼ばれ、双方は過去の哲学者たちによって対立構造に置かれてきた。しかし「内なる音楽」と「外なる音楽」は本当に対立しているだろうか?と思う。
例えば、先日試写に伺った耳のきこえない聾者のオンガクを描いたドキュメンタリー映画『LISTEN』について。この作品を「視た」人は「音楽とは何か」を哲学者のように考えるきっかけを得るだろう。なぜなら「内なる音楽」と「外なる音楽」が調和しながら、そのどちらでもないオンガクが描かれていると感じるからだ。「共同監督」というスタイルで、ふたつの視点が描かれている点も興味深い。

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監督のひとり、聾の舞踏家・雫境さんは子ども時代にみた嵐の空に浮かぶ雲の流れにオンガクを感じたという。「この映画は未完成です。いろいろなことを考えてもらえるきっかけになれば」と上映後に手話で語ってくれた。彼との出会いは、一昨年の文化庁メディア芸術祭で開催された視覚/聴覚の障害を越えた鑑賞ワークショップに参加した時だった。私がふり返りで話したサウンドスケープについて、帰り際に「興味があります」と声をかけて下さったのだった。彼が波のリズムを「きいて」砂浜で踊るシーンはとても美しい。波そのものを表現するのではなく、波音のきこえる音風景の肌理を身体で描く。もうひとりの監督・牧原依里さんは、「手話詩」という聾者の内側から生まれるオンガクを真正面から受け止め、きめ細やかに記録する。この二人の監督の内と外がつながり、『LISTEN』のオンガクに多様性を生んでいる。ゆれる木々の葉、寄せては返す光る波、花が咲き散る、風になびく長い髪、私と私、私とあなた、そして仲間たちとの共感/共鳴・・・ひとつひとつのシーンの連なりも58分間の美しい音楽だ。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない』と、R.カーソンは『センス・オブ・ワンダー』の中で語る。この作品もまさに「きこえない世界」を「知る」のではなく「感じる(きく)」映画なのだと思う。

鑑賞の方法もユニークだ。全編が「無音」というある意味で実験的なこころみは、実は聾者の世界そのものである。聴者は彼/彼女たちの世界にもっと近づくために、耳栓で周辺音をシャットアウトする。きこえる/きこえないの「境界線」を聴者から越えるのだ。けれどもその体験は、アイマスクや暗闇を使った視覚障害者体験とは違う感覚となる。なぜなら、まったく音のない映像の中からも不思議とオンガクが「きこえる」からだ。私が音楽家だからだろうか?しかしそこに「きこえる」オンガクは「旋律・リズム・ハーモニー」といった三要素に凝縮された西洋音楽の典型ではない。では聾者たちの身体で表現されているものは何だろう。なぜ私はこの映像からオンガクを感じるのだろうか。私の「視る」は、やがて「きく」になり、いつしか「感じる」に変わっていく。視覚と聴覚がひとつになって身体の内と外がつながり共鳴する。もしかしたらオンガクを奏でている聾者たちもまた、私と同じプロセスを辿っているのではないだろうか?と思う。手話詩(感情や自然のミメーシス)、サウンドスケープ(音風景)、内なる鼓動や喜怒哀楽・・・それは魂の輝きであり、生命そのものであり、きこえる/きこえないは問題ではないとわかってくる。『LISTEN』が描いているのはやはり「ウチとソトの関係性」なのだと思う。「奏でる人」が自身や世界とどう関わっているか。それを「きく(感じる)」作品なのだ。

花のつぼみがふくらみ、月が満ち欠け、四季が移り変わり、人と人が出会う。それは自然の、そして宇宙のリズムである。身体もまた自然であり、宇宙とつながる。呼吸は波のリズム、鼓動は時間をつくりだし、潮の満ち引きは体内を揺らす。音のないオンガクは確かに存在する。声質のように手話にも「手質」があるという。その人の雰囲気、存在感、そこに立ち現れる肌理もまたオンガクだ。だからこそ世界の内と外に耳をひらき、オンガクとして生き生きと感じてみよう。さあ、LISTEN!「きく」ことは生きることそのものである。聾者たちが教えてくれるのは他ならない「全身を耳にして、世界に耳をひらく」ことの大切さだ。5年間の旅の終わりに、この映画に出会えたことはどこか象徴的だ。私自身も深い喜びを感じているし、ここからがまた新しい旅の始まりなのだと思う。

『LISTEN』は5月14日から全国上映
 公式サイト http://www.uplink.co.jp/listen/

(C)2016 Photo by Yuko Sasama

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2016年1月18日 (月)

2015 映画のメモ

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以前は鑑賞した映画は必ずこちらにレビューを書いていましたが、日々の時間の隙間を縫うように映画館に足を運ぶ今は、ついつい「ふりかえり」が疎かになっています。本当はとても気になっている作品もあるし、基本的にはドキュメンタリー派ですが、備忘録として。とりあえず年間10本。仕事で年300本近く観ていた時代が嘘みたいですが。

2015の10本)
★『みんなのアムステルダム美術館へ』
〇『パーソナル・ソング』
〇『イマジン』
★『みんなの学校』
〇『百日紅』
〇『さよなら、人類』
〇『この国の空』
〇『夏をゆく人々』
★『ヒトラー暗殺、13分の誤算』
〇『しあわせへのまわり道』(原題:Learning to Drive)
★はおすすめ。個人的には見損なっているアピチャッポン監督の『ブンミおじさん』が気になっています。

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2015年2月 8日 (日)

映画『パーソナルソング』

芸術教育デザイン室CONNECT/コネクトサイトより転載しました)

今日は「立春」です。太陰太陽歴の24節気は季節の変わり目という宇宙のリズムを知る暦。同時に、人間の体内にも宇宙と同じリズムが刻まれ「内なる音楽」が流れていることに気づくきっかけも与えてくれます。

そこで『パーソナルソング』という興味深いタイトルの映画のご紹介です。初めにお断りとして、チラシのキャッチコピー「音楽がアルツハイマー病を劇的に改善させた!」は、残念ながらこの映画の’本質’を伝えていないかもと感じました。なぜなら、おそらくこの映画に興味を持った多くの人が期待するような「音楽で認知症が治った!」的な’健康映画’ではなかったからです。むしろ原題にある「ALIVE INSIDE」を「人と音楽」のつながりから見つめ、高齢者福祉や医療制度など生命に関わるさまざまな問題を提起した社会派ドキュメンタリーなのです。それでもやはり音楽が脳に与える影響ははかりしれず、同時に音楽の背景にある「文化の違い」を見せつけられる映画であることは確かでした。20世紀半ばのアメリカは自分だけの「エバーグリーン(不朽の名曲)」が数多く存在する「パーソナルソング王国」だったことがわかります。若い頃の文化体験がいかにその人の「内側」に影響するか、「歌」やそれに付随する幸福な記憶の有無は、これからのアメリカに限らず高齢者の生活を大きく変えるかもしれません。
この映画の中では、ヘッドフォンによって個々の好みの音楽を聴かせることを「音楽療法」と呼んでいました。脳にダイレクトに刺激を与え効果を得ようとするのは西洋医学らしい発想だなとも思いました。しかし「心」はもっと複雑ではないでしょうか。もしかしたら患者たちが見せる感動的な瞬間は、自分にヘッドフォン(音楽)を手渡してくれた人(外 OUTSIDE)の存在に気づき、孤独に苛まれていた心(INSIDE)が救われた瞬間なのかもしれないとも思うからです。それほど「老い」を嫌うアメリカの高齢者施設には孤独の空気が漂っていました。もし仮に音楽が認知症患者(の脳)に「効く」と医療で認定され全国の高齢者施設にヘッドフォンが薬のように配布されても、あの孤独が癒されない限り映画のような感動的な「効果」は得られないかもしれません。作品の最後に涙を流して「Thank you」とつぶやいた男性の感謝の気持ちは、やはり音楽の力そのものよりも、自分にヘッドフォン(思い出の歌を聴く機会)を与えてくれた「人」に対しての感謝の言葉ではないかと感じました。音楽は自分の内の世界(INSIDE)と外の世界(OUTSIDE)をつなぐ関係性なのです。ただしこれは筆者の個人的な見解です。音楽がただ音楽として、何の思い出も付随せず「鳴り響く空気」として存在しても、もしかしたら同じような結果が生まれるのかもしれません。むしろ音楽以前の「オト」であっても認知症に対して同じような’効果’があるのかもしれません。このコネクト通信でも高齢者施設の音楽療法ボランティア「歌う♪寄り添い隊」の活動をご紹介しましたが、あの活動の現場でも映画と同じような光景は見られました。しかし同時に「音楽を奏でる人、歌う人、寄り添う人」という和やかで幸福な場の雰囲気や関係性も見過ごすことは出来ませんでした。筆者がここ数年コンサートをさせて頂いてるホスピス病院でも、世代的な「流行歌」や「思い出の歌」には無表情だった認知症の方に同様の反応が見られることがあります。しかしCDで同じ音楽を流しても同じ反応は生まれるのでしょうか。CDデッキのボタンを押す人と患者との関係性も重要な要素ではないでしょうか。まるでサプリメントのように、ただ音楽のみの効果が検証されるのは芸術を「道具」に貶める危険性も含んでいます。

驚くことに世界は、あと数十年もすれば多くの国が高齢化するそうです。まったく戦争なんてしている場合じゃない。日本は世界一の「高齢化先進国」なのですから、本当の地球の未来のために他にやるべきことは山ほどあるはずです。今回のようなヘッドフォン療法だけでなく、生演奏やスピーカーからの「鳴り響く空気」を全身で受けとめる音楽、他者と音楽を共有し共感する場や時間の意義、オンガク以前のオト(自然音や環境音)そのものの力など、内側の生命と音楽の不思議な関係性について、個人的にもあれこれ思いを馳せる時間となりました。宮澤賢治が『セロ弾きのゴーシュ』で描いた「野ねずみのこども」の病気を治すシーンも思い出されますし、はたしてセロを弾いたのがゴーシュでなくても病気が治ったかはやはり未知数です。

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2014年10月 8日 (水)

『大いなる沈黙へ~グランド・シャルトルーズ修道院』

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作品情報につきましては、公式サイト をご参照ください】
以下は、ササマユウコの個人的な感想です。

この3年半、M.シェーファーのサウンドスケープ思想と向き合って、たどり着いたのは「内(ウチ)と外(ソト)の関係性」でした。
体内の音楽と宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)がひとつとなり「沈黙」へと向かう『世界の調律』のプロセスには、シェーファー自身のヨガや禅の瞑想体験も色濃く影響していますが、何よりもそこにあるのは「祈り」です。
 震災後、私がシェーファーの『世界の調律』を何度も読み返した理由も、その「祈り」を感じ取りたかったからだと思います。’あの日’以来、祈らずにはいられない状況が続き、それは今も変わりありません。                                            
この映画では、旧約聖書 列王記の以下の文章が繰り返し登場します。
「地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」
ああ、これが「Peace and Quiet(嵐の後の静けさ)」なのだ!と思いました。『世界の調律』では、「平和と静寂」と言う言葉は世界中に存在することが記されています。10年以上前に初めてこの一文に出会ってから、この「Peace and Quiet」という言葉が作品づくりのみならず、人生のキーワードともなりました。なぜこの言葉が自分の心を強く捉えるのか、この映画にひとつの答えを見出した気がします。                                      
 アカデミズムではスピリチュアルやポエティックな表現は忌み嫌われますが、そうやって精神性を排除した20世紀型の科学が行き着いた先が、あの原発事故だった。しかし大多数のアカデミズムは今も「科学」であることを辞めません。芸術を語る言葉も「科学たれ」と。30年前にシェーファーがサウンドスケープについて発表した時、学会で失笑を買ったという事実が、そのまま世界の在り様を象徴しているように思います。だからこそ科学者が口にした「想定外」の意味を、私は一生考え続けるでしょう。                                         
 私には信仰はありませんが、カトリックとの縁は不思議と深い。函館元町カトリック教会の中に幼稚園がありましたし、大学も、母となった病院もカトリック系でした。(そしてこの病院は現在、母校の一部となっています)。震災後に通った弘前も、東北で初めてカトリックが入った地として教会が多く、訪れたことはありませんが、佐藤初女さんの森のイスキアも存在します。
 だからでしょうか。この映画の中の「静寂」には懐かしさや馴染みがありました。幼い頃に慣れ親しんだ礼拝堂の空気感や鐘の音がよみがえります。逆の言い方をすれば、この映画の中に、いわゆる「静寂」や「沈黙」は存在しません。ケージが無響室で体内の音に気づいたように、「人が生きること=音を立てること」だと気づかされます。体内の音はもちろん、靴音、布が擦れる音、蒔を割る音、食事の音、鐘の音、讃美歌・・・修道士たちは四六時中、生命と祈りの音を立てている。修道院を取り巻く世界もまた音で満ちています。鳥の声、風で揺れる木々の音、雨の落ちる音、蒔が燃える音、雪の降る音、牛のカウベル・・・世界の調和(ハーモニー)がきこえてくる。                                              
 ただひとつ「沈黙」があるとすれば、それは修道士の「内なる中心点」なのでしょう。そこが静かに保たれることが、神の声を聴くことなのだと。本当は、世界の音が美しく調和していたら修道院は必要ないのかもしれません。それにはあまりに世界はうるさすぎる。「世俗」とはつまり、騒音に覆われ、内と外が分断された世界のこと。だからこそ、まずは体内の音に耳をすますことから始めよう。サウンドスケープ思想の出発点も、そこにあります。
 もちろん「ノイズミュージック」の面白さ同様、世俗の音風景もカラフルな魅力に溢れているとは思います。でもそこから「内なる中心点」を見出すことは、本当に難しい。壮大な点描画から、ただ一点の「透明な点」を見出すような作業です。その一点を探し出すには、人生はあまりに短すぎるのだとも思います。                                          
余談ですが、
興味深かったのが、映画館場内の「音風景(サウンドスケープ)」。
気持ちよさそうな寝息、引き付けのようないびき、始終お腹が鳴ってそのたびに咳払いをする人、、、様々な生命の音がきこえていました。
 全員が黙って静寂に包まれた映画を観るという行為も、どこか修行と似ています。

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2011年10月20日 (木)

みえる、みえない 映画「ミルコのひかり」

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先日は、「きこえる、きこえない」をテーマに舞台「R&J」について。
今日は、目の見えない少年が、
耳を開き、人生の扉をも開いていく映画「ミルコのひかり」を取り上げます。

この映画の主人公はイタリアに実在する盲目のサウンドデザイナー。
彼の少年期をドラマにしたものです。
1970年に10歳だから、自分より少し上の世代かな。
当時うちはオープンリールではなくて、すでにカセットデッキでしたが、
目が見える、見えないに関わらず、
「テープ」を使って録音する楽しさを発見していく過程は、
時代的に懐かしいというか、共感するものがありました。

そして、ここですごく大切なことは、
(ちょっと専門用語になりますが)、
アナログ機材は音の切り貼り作業(パンチイン/アウト)等が、
すべて「手で出来る」ということだと思いました。
ミルコが録音した「音」は、「テープ」という’手に触れられる状態’になっている。
これが、いまのデジタル・レコーダーになると、音がデータ化されるので手で触れられない。
編集画面で、音を視覚的に(あるいは数値として)作業していくことがほとんどです。

例えば、ボタンひとつで(オートで)録音できるICレコーダーは、
目のみえない人たちにも便利のようにも思えますが、
そのあとの編集作業は、かえって難しくなってしまった気がします。
(作業時に音声ガイドがあれば別ですが)。
テープ残量(録音可能な時間)ひとつとっても、手で確認できないのですから。

何より音がカラダを通って、自分が抱えるレコーダーに入っていくような、
音とカラダと機材の一体感には、アナログ的な作業が不可欠です。

ボリュームやフェーダーを動かす感覚だったり、
テープを動かしたり止めたりする時の「ガチャリ」というスイッチの手ごたえや音だったり。
自分が機材を動かしているという実感と、「手の感覚」から音を感じとる面白さと。
ミルコが夢中でテープを切り貼りしている編集作業のシーンは、
まるで楽器を演奏しているようでした。
現在の、目が見えるエンジニアたちが嘆く、
デジタル化によって、音に関わる作業が’視覚に偏りすぎている’という事実。
音がデータ化されてから失われたものが、あのシーンにはありました。

もっと耳を、手を、全身を使って音を探り出していくことが、
本来の音表現の喜び。
もしも、盲目の少年がデジタルレコーダーを使ったとしたら、
はたして音響デザイナーを目指しただろうかというのは、
大きなギモンでもあります。

映画の物語に話を戻せば、もうひとつの印象的なエピソードがありました。
この盲目の少年たちの中に、
先日の「R&J」手話通訳のような存在として、目の見える一人の少女が参加しています。
本人が自覚するとしないとに関わらず、みえるorみえない、少年たちの内と外をつなぐ役割を担う彼女。
彼女の存在が、盲目の少年達の音表現を飛躍的に広げていきます。
しかも彼女にとって、みえるorみえないということは、何の障害にもならない。
こどもゆえの、先入観のない、自由な心があるのです。

先日読んだサウンド・エデュケーションの論文では、
この映画には「「見えること」と「見えない」こと、「聴こえること」と「聴こえないこと」の拮抗が
描き出されている」と指摘されていました。
(2011 石出和也 「聴くことの場」を語るための言葉 (弘前大学)
見えないからこそ聴こえている音があり、
見えてしまうからこそ聴こえない音もある。
いま「見えている」自分の五感が本当に開かれているかは、
常に自問自答する必要があるのだと気づかされます。

そして、ひとりの開かれた耳が、他者の耳を開いていく。
耳だけでなく、心も、未来の扉も開けていく。
(このことは、ラスト近くで象徴的に映像化されています)。
それは、「みえる、みえない」という障害を乗り越えた少年の物語というよりも、
ひとりの気づきが、周囲の共感を呼び、新しい可能性を開いていく、
五感が開かれた人生の醍醐味とは何かを教えてくれる物語でもあったのでした。

「ミルコのひかり」

監督:クリスティアーノ・ボルトーネ
   2005年 イタリア映画

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2011年9月25日 (日)

朱花(はねづ)の月

Photo

中学高校と修学旅行は京都・奈良だった。
東京郊外の新興住宅地に子供が爆発的に増えている頃で(確か11クラス)、
旅行の予算も無かったのだろう。
その後、京都は何度も足を運んでいるのに、
奈良はその時の2回だけ。
けれども強烈に印象に残っているのは法隆寺の百済観音と、自転車で一周した明日香村の澄んだ空気。
そう、どちらも奈良。
そしていつでも心のどこかで、また奈良に行きたいと思う自分がいる。

私は河瀬直美監督が撮る奈良が好きだ。
奈良の森の深い緑や、古来からつづく深遠な空気を、
皮膚感覚で映像に捕らえることの出来る世界で唯一の監督。
彼女の撮る緑色はとにかく美しい。

そして今回は朱色。
紅花やくちなしの赤は、まさに血の色。
赤と緑が織り成す複雑な男女の物語には、暗示的に血の匂いがつきまとい、
そしてある意味’約束された’結末を迎える。

一見ほっこり雑誌にも登場しそうな爽やかな光と、それに対比される闇。
一筋縄ではいかない心の機微が、時空を越えて細部に織り交ぜられている。
万葉集の歌に思いを馳せながら、
やっぱり男と女は永遠にわかりあえないと思ってみたり、みなかったり。

そして何より驚いたのは、
主人公が自転車で駆け抜ける明日香村が、
十代の頃に自分が見た風景と何ひとつ変わっていなかったこと。
いま、自分をとりまく世界はこんなにも大きく変わってしまったのに、
あの場所は古来から変わらずに、今日も存在する。
その尊さと悠久の時の流れに、どこかほっとする自分がいた。

http://www.hanezu.com/

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