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以下は、ササマユウコの個人的な感想です。
この3年半、M.シェーファーのサウンドスケープ思想と向き合って、たどり着いたのは「内(ウチ)と外(ソト)の関係性」でした。
体内の音楽と宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)がひとつとなり「沈黙」へと向かう『世界の調律』のプロセスには、シェーファー自身のヨガや禅の瞑想体験も色濃く影響していますが、何よりもそこにあるのは「祈り」です。
震災後、私がシェーファーの『世界の調律』を何度も読み返した理由も、その「祈り」を感じ取りたかったからだと思います。’あの日’以来、祈らずにはいられない状況が続き、それは今も変わりありません。
この映画では、旧約聖書 列王記の以下の文章が繰り返し登場します。
「地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」
ああ、これが「Peace and Quiet(嵐の後の静けさ)」なのだ!と思いました。『世界の調律』では、「平和と静寂」と言う言葉は世界中に存在することが記されています。10年以上前に初めてこの一文に出会ってから、この「Peace and Quiet」という言葉が作品づくりのみならず、人生のキーワードともなりました。なぜこの言葉が自分の心を強く捉えるのか、この映画にひとつの答えを見出した気がします。
アカデミズムではスピリチュアルやポエティックな表現は忌み嫌われますが、そうやって精神性を排除した20世紀型の科学が行き着いた先が、あの原発事故だった。しかし大多数のアカデミズムは今も「科学」であることを辞めません。芸術を語る言葉も「科学たれ」と。30年前にシェーファーがサウンドスケープについて発表した時、学会で失笑を買ったという事実が、そのまま世界の在り様を象徴しているように思います。だからこそ科学者が口にした「想定外」の意味を、私は一生考え続けるでしょう。
私には信仰はありませんが、カトリックとの縁は不思議と深い。函館元町カトリック教会の中に幼稚園がありましたし、大学も、母となった病院もカトリック系でした。(そしてこの病院は現在、母校の一部となっています)。震災後に通った弘前も、東北で初めてカトリックが入った地として教会が多く、訪れたことはありませんが、佐藤初女さんの森のイスキアも存在します。
だからでしょうか。この映画の中の「静寂」には懐かしさや馴染みがありました。幼い頃に慣れ親しんだ礼拝堂の空気感や鐘の音がよみがえります。逆の言い方をすれば、この映画の中に、いわゆる「静寂」や「沈黙」は存在しません。ケージが無響室で体内の音に気づいたように、「人が生きること=音を立てること」だと気づかされます。体内の音はもちろん、靴音、布が擦れる音、蒔を割る音、食事の音、鐘の音、讃美歌・・・修道士たちは四六時中、生命と祈りの音を立てている。修道院を取り巻く世界もまた音で満ちています。鳥の声、風で揺れる木々の音、雨の落ちる音、蒔が燃える音、雪の降る音、牛のカウベル・・・世界の調和(ハーモニー)がきこえてくる。
ただひとつ「沈黙」があるとすれば、それは修道士の「内なる中心点」なのでしょう。そこが静かに保たれることが、神の声を聴くことなのだと。本当は、世界の音が美しく調和していたら修道院は必要ないのかもしれません。それにはあまりに世界はうるさすぎる。「世俗」とはつまり、騒音に覆われ、内と外が分断された世界のこと。だからこそ、まずは体内の音に耳をすますことから始めよう。サウンドスケープ思想の出発点も、そこにあります。
もちろん「ノイズミュージック」の面白さ同様、世俗の音風景もカラフルな魅力に溢れているとは思います。でもそこから「内なる中心点」を見出すことは、本当に難しい。壮大な点描画から、ただ一点の「透明な点」を見出すような作業です。その一点を探し出すには、人生はあまりに短すぎるのだとも思います。
余談ですが、
興味深かったのが、映画館場内の「音風景(サウンドスケープ)」。
気持ちよさそうな寝息、引き付けのようないびき、始終お腹が鳴ってそのたびに咳払いをする人、、、様々な生命の音がきこえていました。
全員が黙って静寂に包まれた映画を観るという行為も、どこか修行と似ています。
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