2017年4月18日 (火)

ササマユウコのホームページ

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森の中の鹿を相手に説法の練習をしていたわけではありませんが、2011年3月から「音のない音楽」の世界を旅していました。

音楽とは何か、何が音楽か。正解がないことはわかっていましたが、とにかく自分なりの考え方=言葉を手に入れたいと、日々思考を続けていました(それは今も続いています)。そして最近は「音」に立ち返る場面も巡ってきて、言葉にはない音の力を再確認しています。密かにピアノも弾いています。

50代に入った「今」だからお伝えしたいことを。音楽と言葉の両面から、これからも丁寧に積み重ねていきたいと思っています。サウンドスケープとは何かを知るための「耳の哲学」に関心をお持ちの皆さまには、どうぞワークショップも体験して頂きたいと思っています(お気軽にご相談ください)。

まずはお時間のある時に、ぜひサイト をご覧頂けましたら幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 

http://yukosasama.jimdo.com/  音のない音楽/CONNECT主宰 ササマユウコ

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2017年3月26日 (日)

空耳図書館のはるやすみⅢ うららかに終了しました。

♪3月20日の春分の日。「空耳図書館のはるやすみⅢ」を開催しました。
ご参加頂いた皆様、ありがとうございました。活動の記録はこちらから ご覧いただけます。

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あそぶ人aotenjo (外山晴菜/ダンサー、振付家 橋本知久/音楽家)  
+空耳図書館ディレクター:ササマユウコ       イラスト:Koki Oguma

◎「空耳図書館」に関するお問合せは
芸術教育デザイン室CONNECT/コネクトまでお願いいたします。

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2016年9月19日 (月)

【急遽決定!】即興カフェvol.1 @調布 森のテラス

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音楽家のプライベートな音の対話。そこに立ち現れる関係性=オンガクには特別な輝きが生まれることがある。「演奏者⇒観客」という一方向の、ある意味「ハレ」の関係性とは違う「何か」がある。今回はそこを、訪れた方と緩やかにシェアしてみようという、ある種の矛盾を孕んだ試みです。いわゆる「ライブ」や「公開リハ」とも違う。お好きな時間にお好きなように、思い思いに音風景を感じて頂けたら嬉しいです。「おもてなししない」という一期一会のおもてなしの場。

日時:2016年10月6日 OPEN 13時~16時 ※13時からセッティング、14時15分頃から10分程度の休憩。後半は15時45分から片づけの予定です。

対話する音:ストリングラフィ(鈴木モモ)×ササマユウコ(ピアノ、音具)×特別ゲスト・トゥバ民族楽器、声(等々力政彦)

場所:森のテラス
調布 仙川駅徒歩15分 www.moritera.com

参加費
:おひとり1000円
(お茶付き。保護者同伴のお子様は無料です。赤ちゃんもOKです)
※Open時間内の出入りは自由です。

即興カフェ silk&iron (シルクアイロン) とは・・繊細かつ大胆に、音で対話する場。
ジャンルを問わない自由な即興から生まれる「場そのもの」をオンガクとして共有します。「演奏者⇒観客」といった従来の関係性とは違う、演奏者たちの「音の対話」から立ち現れるその瞬間を、訪れた方にも自由に感じて頂くひと時です。即興カフェではワーク・イン・プログレスのほか、ワークショップ、対話型哲学カフェなど、「即興」の持つ可能性をさまざまなかたちで追求していきます。柔らかでフラットな関係性がつくる「表現の自由」とは?

※即興セッションは演奏者の内側に向けて行われますが、音は外側に放たれます。森の音、生活の音、さまざまな音と混ざり合った音風景、オンガクが生まれる瞬間をどうぞご自由にお楽しみください。

出演者紹介:

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鈴木モモ (ストリングラフィ奏者) 国立音楽大学教育音楽学部第II類卒業。幼少期に、ハンガリーの作曲家コダーイの創案した教育システム、コダーイシステムを主とした合唱団にて、ハンガリーの民謡や日本のわらべうたに親しむ。大学卒業後はアートギャラリーに勤務、後に2002年よりストリングラフィアンサンブルに参加、現在まで海外公演も含め数多くの舞台に立つ。また様々なアーティストとコラボレーションすることでストリングラフィの新たな可能性を探る試み「stringraphyLabo」を2011年から企画、主宰している。その他に自宅を開放したイベントスペース「minacha-yam」では口琴WSからアラスカ鯨漁のお話会まで様々なジャンルのイベントを開催。 http://minacosmo.wixsite.com/colorofminacosmo

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ササマユウコ (音楽家・CONNECT代表) 4歳よりピアノを始める。上智大学卒業後、映画、出版、劇場の仕事と並行して音楽活動。2011年の東日本大震災を機に、弘前大学大学院今田匡彦研究室社会人研生(20133月まで)として、サウンドスケープを内と外の関係性から「耳の哲学」と捉えている。音楽家としては1999年からCD6作品を発表し、N,Y.Orchard社より世界各国で聴かれている。201512月アーツ千代田3331で発足したスイス人音楽家JanAngelaの即興ワールド・プロジェクト「音を奏でる身体~動く音響」コラボレーター。またダンサー・新井英夫氏との「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」など特に即興の可能性を探っている。 コネクトhttp://coconnect.jimdo.com/ 個人http://yukosasama.jimdo.com/

 
1回ゲスト

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             等々力政彦 (トゥバ音楽演奏家)

20年にわたり南シベリアで喉歌(フーメイ)などのトゥバ民族の伝統音楽を現地調査しながら、演奏活動をおこなっている。嵯峨治彦(モンゴル音楽)とのユニット「タルバガン」、奥野義典・瀬尾高志・竹村一哲とのユニット「グロットグラフィー」、ササマユウコ・真砂秀朗とのユニット「生きものの音」でも活動中。国内外ワークショップ、執筆も多数。研究者と演奏家の顔を持つ稀有な存在。

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2007年秋、調布の森のテラスでは2日間にわたる即興の記録、CD『生きものの音』(真砂秀朗、ササマユウコ、等々力政彦 DALIA-001)が録音され、ピーター・バラカン氏のラジオ番組で特集紹介されました。※当日CD販売あり。

企画・主催 即興カフェsilk&iron
      (予約不要) お問合せCONNECT/コネクト内) http://coconnect.jimdo.com/

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2016年9月16日 (金)

十五夜に寄せて

Photo 娘が2歳の頃に「私はうさぎ姫だからいつかお月様に帰るのよ」と言い出して、ドキドキしたことがある。彼女は9月の満月の頃に生まれて、私は出産時に文字どおり死にかけた。あの時から生と死がいつも背中合あせにあるようで、育児は余生の「ミッション」というか、なんとなく普通の子育てとは違う感覚だった。この子は本当に月から来たのかもしれないと、冒頭の言葉を聞いてからは、まるで「かぐや姫」を育てている婆さんのような心境だったと思う(笑)。しかも2歳前後の子どもは不思議と預言めいたことを口にするので、これは何かの「お告げ」かもと言葉を記録していたくらいだ。いま振り返れば「親バカ」の変型とも言える。

私が4歳の頃に人類が初めて月に行った(ことになっていて)、小学生の時に読んだ子ども向けの科学雑誌には「あと10年もすれば100万円で月に日帰り旅行ができるようになります」と書いてあって、かなり本気で楽しみにしていた。いつかこの青い星を外側からみたいと思ったし、宇宙飛行士を目指した同世代はきっとあの記事をどこかで読んで、変わらずに信じて大人になった人たちだと思う。
日は偶然10年前の雑誌記事に「太陽よりも月のような音楽家」と自分のことが書いてあるのを見つけた(作品タイトルが『月の栞』だったからか)。たぶん今は自転しながらさらに太陽の周りを回って惑星仲間もいる「地球」そのものだと思うけど、確かに妊娠・出産・育児期はもっと月を身近に感じて生活していた。新月満月、宇宙のリズムを意識するようになると、特に小さな子の調子を掴みやすくなるし、自分の内側の宇宙も意識するようになる。そして、それはそのままサウンドスケープの哲学ともつながって、欠片の集合体だった世界が一気にひとつの輪になるような感覚に包まれる。
9月の満月を見上げると忘れかけていた記憶や感覚がよみがえる。自分の生命にいつもより近づく感じがする。未だ実現しない月旅行よりも、家のベランダから遠く見上げるくらいの宇宙が私にはちょうどいい。そしてもうすぐ彼岸の入り、22日は秋分の日だ。

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2016年7月18日 (月)

「World Listening Day2016」に寄せて

 7月18日はカナダの作曲家マリー・シェーファの誕生日にちなんで、「World Listening Day」が設立されています(シェーファーは今年83歳)。今でこそ学際的に、様々な領域で使われる「サウンドスケープ」という考え方(コトバ)ですが、そもそもはシェーファーを中心に、世界の音環境を調査する「World Soundscape Project」という環境学的なアプローチからスタートしています。しかしこれにも経緯があって、大学の教員となったシェーファー自身が伝統的なクラシック音楽教育に馴染まず、「自分の存在を正当化するため」(本人弁 『モア・ザン・ミュージック』若尾裕著より)にコミュニケーション学科に移り、その流れでこのプロジェクトが必然的に生まれたのでした。まさに瓢箪から駒、というか、「音楽教育は全的教育だ」と考えるシェーファーの「柔らかに生きる力」をあらためて感じるエピソードです。しかもそれが40年近く前だったことを考えると、当時は今以上にヴィルトーゾ教育が主流だったはずの音楽教育を飛び出し、「音響コミュニケーション」を掲げ、サウンドスケープから音響生態学(Sound Ecology)を学際的に提唱したシェーファーは、当時最先端の考えを持つ音楽教育者だったとも言えます。このサウンドスケープ論は「社会福祉」にもつながると予見されていて、音楽家シェーファーの社会とつながる感覚は、今の時代の音楽家にこそ学ぶものが多いと感じています。ちなみに40年前の(当時の)アカデミズムでは、どこへ行っても氏の考えは‘嘲笑された’と本人が回想しています。

 その後「サウンドスケープ」、あるいはそれを学ぶ「サウンド・エデュケーション」は、音楽教育を始めとする芸術教育、哲学、環境学、コミュニケーション学、福祉学、建築学、都市デザイン・・と、さまざまな領域に広がり、その流れは現在まで続いています。ちなみに私(ササマユウコ)は、コネクトの活動をサウンドスケープ哲学実践の場として、「きく」を共通キーワードに持つ臨床哲学との親和性にも着目して研究しています。内と外をつなぐ柔らかな発想です。
まさに耳から捉える世界は多面体なのでした。

■プロジェクトの関連ページはこちらです
●コネクトでの関連記事はこちらです

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2016年6月14日 (火)

ササマユウコ/Yuko Sasamaホームページ移転中です。

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□6月いっぱいで旧サイトのサービスが終了するということで、急遽ササマユウコのホームページの移転作業に入っています。ちょうど「ふり返り」の時期なのかなと思っていますが、予定外だったのであたふた・・。

2011年の東日本大震災以降、水面下で「音を出さない音楽」と向き合ってきたササマの「イマココ」がわかるサイトになると思います。
まだ表紙しかできていませんが、2011年以前の活動アーカイブも含め徐々に移行していきますので、時どきのぞいてみてくださいね。

□新サイトhttp://yukosasama.jimdo.com/ 

 

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2016年5月23日 (月)

聾者の音楽映画『LISTEN』 アフタートークに出演しました。

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□連日満席が続いている映画『LISTEN』。出演させて頂いた21日(土)夜のアフター・トーク「ウチとソトから’きく’音楽」の様子を、一部抜粋ですがこちら丁寧にまとめて下さっています。話したことが瞬時に文字化&公開されるのは口述筆記のような独特な緊張感もありましたし、もっと話すべきことがあったはずと後悔も残りますが、この作品を使った「哲学カフェ」やりたいなあ・・と思いながら、「音楽とは何か、何が音楽か」について、さまざまな内側と外側から牧原さん&雫境さん両監督とともに考えてみました。たぶんあと3時間くらいは話せたと思います(笑)。先週末は夕方の回に急遽追加上映をしていましたが、それでも夜の回もあと2、3席・・。お立ち見もいらしたので、予告を未見の方も含め今後の詳細はアップリンクのHP でご確認ください。

□この日は、久しぶりに脚本家の米内山陽子さんや、演劇家の柏木陽さんともお会いして、イベント後も米内山さんの通訳を介して監督お二人と共に映画&演劇&音楽談義に花が咲きました。基本的には「きこえる/きこえない」を越えての表現者同志の対話でしたが、同時に「手話」という身体的なコミュニケーションがやはり興味深かった。'楽器演奏時’の身体の使い方、特に指先の動きを含めた「手の仕事」に非常に近いと感じました。実際に手話にも「手質」や得手・不得手があると言います。そして、今回この映画の中で私が「何に」もっとも’音楽’を感じたかと考えた時、(私は手話がわからないので)純粋に彼らの指先や身体が醸し出す雰囲気であったり、動きの「間」であったり、「音のある/なし」を越えたセンス(感覚)や、そこに’きこえる’サウンドスケープ(音風景)だったと思います。反対に手話のわかる人や聾者は、動きに「意味」を見出そうと観てしまうと話していたので、この映画はやはり「きこえない世界」の内側から、「きこえる世界」につながろうと試みた作品なのだと思いました。

□『LISTEN』の面白いところは、被写体ひとりひとりが’奏でる音’を、「無音の58分間」という音楽的な「時間の流れ」として、おそらく’作曲’のような思考と直感で編集して、ひとつのサウンドスケープ(音風景)としてデザインしている点にもあります。人の数だけ音楽があり、各被写体の音楽もいわゆる三要素(旋律、リズム、ハーモニー)で語られるものだったり、内と外の関係性そのものを表現していたり手法は様々です。それをもう一度、監督が音風景として紡ぎ直している。もっと言えば「ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)」のハルモニア(調和)の世界を目指した「沈黙をきく」作業です。だから観客にも「きく」ための想像力が求められる。それは先日観た能舞台でも体験した感覚でした。「きく」とは鳴り響く森羅万象(宇宙)に耳をひらき、全身を耳にする行為です。鑑賞者は彼らの音楽を受け入れ、時には自分から求めに行く。受動的聴取と能動的聴取を繰り返しながら映画を「きく」のです。感覚器官に「目」を使っていたとしてもです。

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□余談として舞台裏のお話から、国際映画祭が「聴者による聴者のためのもの」だということも含め、まだまだ聾者がコネクトできない領域があることも見えてきました。実は社会に出て最初に就いた仕事が洋画仕入だったので、もともと映画を観てきた方だとは思いますが、確かにこの『LISTEN』はアート系でもドキュメンタリーでもない。つまりは「聴者の価値観」や「ジャンル」で撮られていない新しい作品だということも非常に注目しています。それは耳栓を渡される鑑賞方法もしかりです。
しかし、この作品が映画界の内側に入るほど「かくあるべき」という壁にぶつかり、評価が厳しくなるという。反対に映画の外の人ほど面白がってくれる、というお話も社会の在り方を象徴しているようで印象に残りました。特にこれは、商業のシステムと結びつき発展した比較的歴史の浅い「映画」というジャンルが、本当の意味で皆にひらかれた「芸術」となるための課題のひとつと言えるだろうと思いました。なぜなら、この作品を「観たい」と連日多くのきこえる/きこえない人たちが映画館に足を運び、満席が続いているという現状があるからです。

□それでも、この映画にどうしても「聴者のジャンル」が必要と言うならば、やはり「音楽」と言いたいと思います。私が「ダンスではない」と感じる理由はまた別の機会に考えてみたいと思いますが、これは音楽家の直感です。映像の’質感’から「アート系」とも違うと思いました。58分間の無音の音楽。即興性や偶然性、荒さときめ細やかさを内包している「現代音楽」ならぬ「未来音楽」と言えるでしょうか。それは身体を動かさずに脳波だけで音楽を奏でる人工知能音楽の映像を観た時の感覚に近いというか(人工的という訳ではなく、’新しさ’という意味において)。とにかく聴者の音楽の「当たり前」が揺さぶられ、観終わった後も「きこえるとは?」「音楽とは?」と考え、他者との対話を生むだろうと思います。何より「きこえる/きこえない」という両者の世界をつなげたくなる。聴者は耳栓で塞いだ自分の身体の内側の音、つまり「生命の音」に気づき、それは聾者にも同様にある音楽だとあらためて知る。彼らの音風景(世界)に気づくこと。まさにそれは「きく」ことから世界との「つながり方」を見直そうとしたM.シェーファーのサウンドスケープ哲学そのものだと思うのでした。

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2016年5月16日 (月)

アーツ千代田3331「音を奏でる身体~動く音響」 記録映像です。

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昨年12月にアーツ千代田3331レジデンスアーティストJan&Angela(スイス)のプロジェクトに参加した際の映像記録が出来上がりました。

音を奏でる身体~動く音響」と題したこのプロジェクトは、彼らが世界各国を旅して出会ったアーティストと身体×音の「即興的対話」から生み出されていく旅の記録でもあります。

ですから映像の中でも、いわゆる「パフォーマンス作品」ではなく完全に即興の非言語コミュニケーション(コトバ以外の音と身体を使った対話)が行われています。出演者5名の間には「10分×3本」と役割(私は音)が与えられているだけです。ステージの内側の世界では、かなりの情報量や「気」が飛び交ているのですが、外側からはこのように見えていたという記録でもあります。定点観測なので、外側からは見えていない部分で起きていたこと、内側には届いていなかった周辺環境音が入り込んでいることなど様々な発見があります。「作品」として受けとめることも可能です。また私とJan(音楽家たち)の身体が、3名のダンサーの身体とは明らかに違うことも興味深い。音楽家とダンサーの音の扱い方も微妙に違うのも興味深いと思います。
何より初対面のメンバーが、出会ってから1週間後に、分野や国境も越えて即興的な非言語コミュニケーションが可能になることも、芸術の力だと思います。私にとっては2011年から久しぶりのステージが「ピアノではない」というレアな状況ですが、その展開も含めて「身体と音の即興的対話」について、もっと自由に内と外をつないでいきたいと思いました。

■詳細はJanのホームページ をご覧ください。

photo(C)Steven Seidenberg and local press photographer

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2016年3月24日 (木)

音楽×弘前の哲学カフェ「‘きこえない音’は存在するか~花のひらく音をきく」開催します。

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【こちらは定員に達しました。ご応募ありがとうございました】
昨年の1月に好評だった弘前大学今田匡彦研究室の哲学カフェ(@日本橋DALIA)。4月9日に第2弾を開催します。

例えば哲学の世界には「誰もいない森で木が倒れたら音はするか」という有名な問いがあります。この問いかけは何を意味しているのでしょう。また、かつては当たり前に存在した「蓮のひらく音」が、現代人の耳にはきこえなくなったのはなぜでしょうか。

日本の子どもたちに向けて、サウンドスケープ哲学を学ぶ100の課題が提示された『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(M.シェーファー/今田匡彦著 春秋社 増補版2009)。この音楽教育のテキストには「花びらが開くときの音をきく」という課題をはじめ、「空想の音」「幽霊音」などの‘空耳’をきく課題がいくつも登場します。

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科学ではなく、あくまで哲学や芸術の視点で「音が存在する」ことの意味、「きく」ことを自由に考える時間です。今回は「糸の森」のように音が美しく視覚可された芸術と科学の融合の場とも言えるストリングラフィのスタジオで、五感を使った音のワークショップ&対話形式の「感じる×考える」哲学カフェです。高校生から、どなたでもご参加頂けます。音楽以外の方もぜひどうぞ。

【講師】今田匡彦 (弘前大学教授 哲学博士)
1964年東京生まれ。国立音楽大学卒。サイモン・レフーザー大学教育学部修士課程修了。ブリティッシュ・コロンビア大学教育学部カリキュラム研究学科博士課程修了(Ph.D取得)。著書にサウンドスケープ思想を提唱したカナダの作曲家/M.シェーファーとの共著『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』、『哲学音楽論~音楽か教育とサウンドスケープ』(恒星社厚生閣2015)ほか多数。

【オト】鈴木モモ (ストリングラフィイ演奏家)

【進行】ササマユウコ (音楽家/コネクト代表 弘前大学今田匡彦研究室社会人研究生2011~2013)

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【日時】2016年4月9日(土) 18時~20時

【場所】Studio Eve(ストリングラフィのスタジオです) 

【定員】20名 (下記メールにて、お申込み順。定員になりしだい締切ます
         ※現在残り10名程度です)

【料金】大人2800円  高校生1500円 ※花のお茶つき

【お申込み】 定員に達しました。

【主催・お問合せ】
相模原市立市民・大学交流センター内 シェアード1
芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト

専用Facebookページはこちらです

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2016年3月13日 (日)

内と外を柔らかにつなぐ映画 『LISTEN』を観て。

Listen_4東日本大震災のあと、私はしばらく音を出すことが出来なくなってしまった。失語症ならぬ失音症というのか。きっかけには子供を持つ親として受けとめた原発事故や「自粛ムード」という外側の要因もあったけれど、コトバよりも先に覚えた「音楽(と思っていたこと)」と自分との関係性が、何だかよくわからなくなってしまったという内側の理由が何より大きかった。やがて世間は「絆」を合言葉に、自粛していたはずの歌の大合唱を始めたけれど、心はまるで色を失ったようで苦しかった。いったい私の内側で何が起こっているのか。オンガクを探す旅、いや取り戻す旅は、2011年秋の弘前から始まった。

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それから5年、まるで何かに導かれるように多くの縁や出会いがあって、それは今も続いている。ピアニストは孤高でなければならぬと思っていた自分はもういない。サウンドスケープの弘前大学今田匡彦研究室をはじめ、若手の音楽家やアーティストたちと共に、哲学カフェや芸術活動まで展開している。私はこの5年間ずっと「音を出さないオンガク」を奏で、きいていたのだと今は思う。
ところで、震災前後で自分のオンガクは何か変わっただろうか。実はこのところ、ふたたび音を出す機会が増えているが、物理的な「音波」の印象は何も変わっていない、と本人は感じている。強いて言えば、ピアノ以外の音具も奏でていることだろうか(カリンバ、フレームドラム、バードコール、新聞紙!)。サウンドウォーク(音の散歩/ききあるき)やサウンド・エデュケーション(音のワークショップ)を通して「想定外をきく」ことに「空耳」というコトバを得て、赤ちゃんから高齢者までに場をひらくことが可能となった。16年前に信州国際音楽村に通いながら作ったCDのタイトルも『空ノ耳』だった。自分の内側にあるオンガクの源流は、やっぱり何も変わらない。好きな「間」や「音質」、内と外をつなぐサウンドスケープとは結局、他の誰でもない自分の生命や世界観なのだと旅の終わりに気づいた。まるでメーテルリンクの「青い鳥」みたいに。

「音楽とは何か、何が音楽か」。この答えは人によって違うし、おそらく正解もない。人の数だけ音楽はあるのだろう。西洋音楽(哲学)には基本的にふたつのオンガクが存在するが、それも数ある文化のひとつに過ぎない。例えば、耳から世界を捉え直すサウンドスケープ論を提唱したカナダの作曲家M.シェーファーは、それを「鳴り響く森羅万象(sonic universe)」と呼んだ。耳が外から受けとめる「音波」や「音の連なり」、J.ケージが無響室で気づいた体内を流れる音もまたオンガクと考える。内側と外側が響き合う宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)、調和(ハルモニア)。その哲学的な世界感や概念を「きく」ことをアポロン的音楽という。一方、内なる感情や情動を表現する音楽はデュオニソス的音楽と呼ばれ、双方は過去の哲学者たちによって対立構造に置かれてきた。しかし「内なる音楽」と「外なる音楽」は本当に対立しているだろうか?と思う。
例えば、先日試写に伺った耳のきこえない聾者のオンガクを描いたドキュメンタリー映画『LISTEN』について。この作品を「視た」人は「音楽とは何か」を哲学者のように考えるきっかけを得るだろう。なぜなら「内なる音楽」と「外なる音楽」が調和しながら、そのどちらでもないオンガクが描かれていると感じるからだ。「共同監督」というスタイルで、ふたつの視点が描かれている点も興味深い。

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監督のひとり、聾の舞踏家・雫境さんは子ども時代にみた嵐の空に浮かぶ雲の流れにオンガクを感じたという。「この映画は未完成です。いろいろなことを考えてもらえるきっかけになれば」と上映後に手話で語ってくれた。彼との出会いは、一昨年の文化庁メディア芸術祭で開催された視覚/聴覚の障害を越えた鑑賞ワークショップに参加した時だった。私がふり返りで話したサウンドスケープについて、帰り際に「興味があります」と声をかけて下さったのだった。彼が波のリズムを「きいて」砂浜で踊るシーンはとても美しい。波そのものを表現するのではなく、波音のきこえる音風景の肌理を身体で描く。もうひとりの監督・牧原依里さんは、「手話詩」という聾者の内側から生まれるオンガクを真正面から受け止め、きめ細やかに記録する。この二人の監督の内と外がつながり、『LISTEN』のオンガクに多様性を生んでいる。ゆれる木々の葉、寄せては返す光る波、花が咲き散る、風になびく長い髪、私と私、私とあなた、そして仲間たちとの共感/共鳴・・・ひとつひとつのシーンの連なりも58分間の美しい音楽だ。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない』と、R.カーソンは『センス・オブ・ワンダー』の中で語る。この作品もまさに「きこえない世界」を「知る」のではなく「感じる(きく)」映画なのだと思う。

鑑賞の方法もユニークだ。全編が「無音」というある意味で実験的なこころみは、実は聾者の世界そのものである。聴者は彼/彼女たちの世界にもっと近づくために、耳栓で周辺音をシャットアウトする。きこえる/きこえないの「境界線」を聴者から越えるのだ。けれどもその体験は、アイマスクや暗闇を使った視覚障害者体験とは違う感覚となる。なぜなら、まったく音のない映像の中からも不思議とオンガクが「きこえる」からだ。私が音楽家だからだろうか?しかしそこに「きこえる」オンガクは「旋律・リズム・ハーモニー」といった三要素に凝縮された西洋音楽の典型ではない。では聾者たちの身体で表現されているものは何だろう。なぜ私はこの映像からオンガクを感じるのだろうか。私の「視る」は、やがて「きく」になり、いつしか「感じる」に変わっていく。視覚と聴覚がひとつになって身体の内と外がつながり共鳴する。もしかしたらオンガクを奏でている聾者たちもまた、私と同じプロセスを辿っているのではないだろうか?と思う。手話詩(感情や自然のミメーシス)、サウンドスケープ(音風景)、内なる鼓動や喜怒哀楽・・・それは魂の輝きであり、生命そのものであり、きこえる/きこえないは問題ではないとわかってくる。『LISTEN』が描いているのはやはり「ウチとソトの関係性」なのだと思う。「奏でる人」が自身や世界とどう関わっているか。それを「きく(感じる)」作品なのだ。

花のつぼみがふくらみ、月が満ち欠け、四季が移り変わり、人と人が出会う。それは自然の、そして宇宙のリズムである。身体もまた自然であり、宇宙とつながる。呼吸は波のリズム、鼓動は時間をつくりだし、潮の満ち引きは体内を揺らす。音のないオンガクは確かに存在する。声質のように手話にも「手質」があるという。その人の雰囲気、存在感、そこに立ち現れる肌理もまたオンガクだ。だからこそ世界の内と外に耳をひらき、オンガクとして生き生きと感じてみよう。さあ、LISTEN!「きく」ことは生きることそのものである。聾者たちが教えてくれるのは他ならない「全身を耳にして、世界に耳をひらく」ことの大切さだ。5年間の旅の終わりに、この映画に出会えたことはどこか象徴的だ。私自身も深い喜びを感じているし、ここからがまた新しい旅の始まりなのだと思う。

『LISTEN』は5月14日から全国上映
 公式サイト http://www.uplink.co.jp/listen/

(C)2016 Photo by Yuko Sasama

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